情報をくれたジェラルドに礼を言い、ローゼは彼の部屋を退出した。一緒に外へ出たフェリシアはローゼの顔を覗き込んで何かを言いかけようとしたけれど、黙り込んでしまう。その表情ときたら、体のどこかをひどく傷つけてしまったかのようだ。彼女がこんなにも辛そうな表情をする必要はない。だってローゼは今もちゃんと笑えているのだから。
「訓練を休ませちゃってごめんね。案内してくれてありがとう、フェリシア」
「いいえ。わたくし、何のお役にも立てなくて……」
言って少し目を伏せ、フェリシアはもう一度ローゼを見る。
「あとでローゼのお部屋に伺っても構いませんこと?」
正直な話をするならローゼは「
だけどフェリシアにはこれまでたくさん世話になってきている。ここで断るのは勝手すぎると思い、ローゼは笑顔で「もちろん」と答えてフェリシアと別れた。彼女は最後まで、どこかがとても痛いような、そんな表情を見せていた。
レオンも何も言わなかったので、ローゼは黙ったまま部屋への道を行く。途中で会った神官や神殿騎士が話しかけて来るかと思ったが、誰も何も言わなかったのは皆がローゼに対する興味を失ったためかもしれない。
なるべく最短で戻れるように歩き、静かなまま帰って来たローゼは静かな部屋で椅子に座ってぼんやりする。ふと思いついて手持ちの品を大きな荷袋に詰めようとし、この袋をくれたのが誰だったのかを思い出して目をつぶったところで扉の叩かれる音がした。
訪ねて来たのは世話係の神官だった。曰く、ダスティ・ハイドルフ大神官が呼んでいるらしい。
ハイドルフ大神官は現在の大神官の中でも最年長の人物だ。先日七十三歳になったと聞いている。
“大神官”の地位に就いてからの期間も長い彼は、実を言えば数年前から何度も引退を考えているらしい。だけどまだ彼が大神官であり続けているのは、周囲の人々がハイドルフ大神官の退位を惜しんでいるからだと聞いたことがあった。
ローゼもハイドルフ大神官とは何度も会っている。今回のローゼの儀式に関して中心的に動いてくれた人物というのがハイドルフ大神官だったからだ。よって白い鞘の聖剣を携えたローゼは、よく知った廊下を進んでハイドルフ大神官の執務室へ行く。
出迎えてくれた背の高い大神官は「急に来ていただいて申し訳ない」と言ってローゼへ一礼し、椅子をすすめた。
ローゼが聖剣を腰から外して座ると、正面の椅子にハイドルフ大神官も腰かける。机には既に茶の準備がされていた。ゆらゆらと立ち上る湯気が先ほどの物悲しい記憶を思い起こさせて、ローゼの胸はぎゅっと痛んだ。
「何か御用でしょうか?」
ローゼが尋ねると、しばらくの沈黙があった後に大神官は口を開く。
「レスター神官の行方をご存じありませんかな」
「……どうかしましたか」
とりあえずローゼは否定も肯定もしなかった。その態度から何かを感じとったようではあるが、ハイドルフ大神官は特に尋ねたりはせず話を始めた。
元々アーヴィンは今朝早くに大神殿を発つ予定にしていたようだ。その前にハイドルフ大神官へ面会を申し込んでいたとか。おそらく別れの挨拶でも述べるつもりだったのだろう。
しかし約束の時間になっても彼は来ない。不思議に思ったハイドルフ大神官が
「彼の身に何かあったのかと案じておりましたら、先ほどこのようなものが届けられたのです」
立ち上がったハイドルフ大神官が机の方へ招くのでローゼも移動する。そうして、
「あ……」
と呟き、言葉を失った。
机にあったのは鮮やかな青い色をした神官服だった。その上にはいかにも質の良さそうなきめの細かい紙が置かれ、短い文章が綴られている。
『残してきたものについてはお取り計らいのほどよろしくお願いいたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
流麗な文字はやや乱れているが、アーヴィンのものに間違いない。
(……そっか)
アーヴィンは昨日の王宮に青い神官服を着て行った。
しかし夜、シャルトス家の前で見たときには貴族風の服を着ていた。
つまり彼は王宮内で着替えをし、不要になった神官服を大神殿に送りかえしてきたということなのだろう。
「いかがでしょう、ファラー殿」
顔を上げると、ハイドルフ大神官が問うような視線を向けている。
「すみません。私には分かりません」
ハイドルフ大神官に答えを返し、ローゼは頭を下げるしかなかった。
そう。ローゼには分からない。どうして彼が神官になったのか、どうして彼がグラス村に来たのか、どうして急に故郷の北方へ帰ることになってしまったのか、何ひとつとして。
ただ、ローゼにも分かることがある。「さようなら」と言った彼は青い神官服を大神殿に返し、手紙まで同封した。もう二度と神殿には戻るつもりがないということだ。その事実があるのだから、これ以上は理由を追求する必要も、探る必要もない。
「ところでハイドルフ大神官様。私からもお聞きしたいことがあるんです」
「なんでしょう」
「私の身分証と、
儀式もお披露目会も終わったのだからローゼは名実ともに聖剣の主だ。よってそろそろ自身の役目を果たさなくてはいけない。
聖剣の主の随伴者は、今までなら聖剣の二家が自分の親族から選んでいる。しかしローゼには随伴してもらえるような人物の当てがないので、大神殿側が用意してくれるという話になっていた。
「身分証は明日にでもお渡しできると思います。ですが随伴者に関してはもう少し時間がかかりそうです」
「そうですか……では、明日から私がひとりで出かけても構いませんか?」
「ファラー殿おひとりで?」
「はい。遠くまでは行きません。ほんの何日かだけです。王都付近を巡るくらいに留めて、随伴者が見つかる頃には戻ってきます」
「……ファラー殿が望むのでしたらお止めはいたしません。ですが、随伴者が決定してからの方が良いのではありませんかな」
ハイドルフ大神官の表情や声からは、ローゼを心から案じてくれている様子が垣間見えた。しかしローゼはその気持ちをありがたく思いながらも首を横に振る。
「できたら明日には出発したいんです」
「……分かりました。ではまた明日、私の執務室までお越しください。何時でも構いません。私本人が居なくても話が分かるものを必ず残し、身分証をお渡しできるようにいたします」
「ありがとうございます」
こうしてローゼはハイドルフ大神官の部屋を退出する。
レオンはずっと静かなままだった。
今のローゼはあまり誰かと話したい気分ではなかったので、彼が何も言わないのはとてもありがたかった。
数日で戻るつもりだとはいえ、明日の旅立ちを決意したのだから自室として二か月近く過ごしてきたこの客間ともお別れだ。
出立のためにローゼが荷物をまとめていると、扉を叩く音がする。
「ローゼ、フェリシアですわ」
そういえばジェラルドの部屋を出たあとにフェリシアが「あとでお部屋に伺っても構いません?」と言っていたことを思い出す。
本音を言えばそのまま帰ってほしかったが、あのとき「もちろん」と言ってしまったのだから追い返すわけにはいかない。ローゼは立ち上がり、扉を開けてフェリシアを招き入れる。
「散らかっててごめんね」
「どこかへ行きますの?」
「うん。明日には身分証ができるって話だから、ちょっと外へ出てみようかと思って。あ、随伴者はまだ見つかってないんだけどね」
できれば今はもう大神殿にいたくないのだとは言わなかった。
ローゼが椅子を示すとフェリシアは素直に腰かけた。いつもならお菓子を出してお茶を淹れ始める彼女だけれど、今日は様子が違う。しかしローゼものんびりお茶を飲むつもりもないのでちょうどいい。
「フェリシアにはたくさんお世話になっちゃった。本当にありがとう。おかげで――」
「ローゼ。聞いてくださいませ」
向かい合う位置に座るフェリシアは、ローゼの言葉などなかったかのように話しだす。
「むかし、この大陸にはたくさんの小さな国がありました。やがて周りの国を少しずつ併合していく“力持つ国”があらわれます。その中のひとつがアストラン王国でした」
ローゼは面食らう。フェリシアはどうしていきなり過去の話など始めたのだろう。
「少しずつ大きくなっていくアストラン王国は、北方にあった小さな国にも目を向けます。そして、“北方の小さな国”は、“大きな国の北に位置するひとつの場所”になりました。これが現在の“アストラン王国北方地域”ですの」
「うん……?」
「小さな国だったころ、あの地はシャルトス家が治めていました。そしてアストランの北方地域になった今でも変わりません。立場は『国王』から『アストラン王国の公爵』になりましたが、シャルトス家はむかしと変わらぬ状態で土地を治め続けていますの」
本を読んでいるから多少は理解しているものの、政治のような難しい話は辺境の村に住んでいたローゼにはよく分からない。だから「そういうこともあるんだろうな」とだけぼんやり思った。
「シャルトス家はアストラン王国の中でも特に力を持っていますわ。その最も大きな理由は、あそこに住む人々がシャルトス家にだけ忠誠を誓っているからですの。――北方の民は、シャルトス家以外が自分たちの支配者になるのを許しません。過去にほかの貴族が北方を治めようとしたこともありますが、そのたびに反乱が起き、結果的に失敗に終わっていますのよ。おかげでシャルトス家は富に満ちた北方地域を長く統治し続けられています。民がどうしてそこまでシャルトス家を崇めるのか理由はよく分かっていないのですけれど……もしかしたら北方の排他的な気質と関係があるのかもしれませんわね」
部屋が暗くなった。先ほどから吹いていた風が、雲を連れてきて陽を隠したせいだ。この後はいくらも経たずに雨が降るだろう。
「ところで、ローゼ。ローゼはこのあと、どこへ行きますの?」
「ええと、あたしは」
「北ですわね?」
「え?」
「ローゼは北へ行きますわね?」
苦笑しながらローゼは首を横に振る。
「行かないよ、そんな怖そうなところ」
ジェラルドは「あいつのことは忘れるんだぞ」と言った。その言葉の通りだ。フェリシアの話にはどう考えても諦める理由しか見つからない。だけどフェリシアの表情が「諦めろ」と言っているように見えないのは不思議だった。
「お披露目会でラザレスが言ってたけど、北には聖剣の二家の当主もほとんど行かないんだって。だから初心者のあたしは、もっと簡単な場所からにする」
「いいえ、ローゼはまず、北へ行きますわ」
「行かないってば。無理だもん」
「それでもローゼは北へ行くのです。行くべきです」
「なんで?」
「それがローゼのためですもの」
「あたしの?」
「はい。わたくしには、ローゼとアーヴィン様がお別れした状況は分かりません。ローゼとお兄様がシャルトス家の屋敷の前で見聞きしたことも知りません。ですが、これだけは理解できていますわ」
すう、と息を吸ってフェリシアは言い切る。
「ローゼとアーヴィン様は、幸せなお別れをしたわけではない」
フェリシアの言葉が胸の奥まで
「当たり前でしょ? 別れなんて、寂しいものが大半なんだから」
「そうかもしれませんわね。けれどお別れにもいくつかありますわ。願ってもいないのに引き裂かれるものもあれば、自分は寂しいけれど、相手の幸福を願って手を振るものもあります」
「うん。確かにあたしは寂しいよ。だけどアーヴィンは家に戻った方が幸福でしょ? だから手を振ることにしたの」
「本当にそう思っています?」
フェリシアがローゼの顔を覗き込む。
「アーヴィン様は、お家に戻れると分かって嬉しそうでしたの? これから幸せになれるような、そんなお顔をなさっていました?」
「それは……」
ローゼは口ごもった。
夜の庭園で見たアーヴィン。飲めないはずの酒を飲み、踊れないローゼと踊り続けていた彼の姿は、家へ戻れる喜びにあふれていただろうか。
「わたくしには、アーヴィン様が北方へ戻るのは良いことだと思えません。そもそもあの公爵家が血族を神官にするなんて絶対に考えられないこと。――ですから、これらすべてには何か理由があるのです」
「じゃあ、どんな理由があったっていうの?」
「分かりませんわ。あの家の動向は王家でもほとんどつかめていませんもの」
「えーっ。なのに北へ行けって言うの? やっぱりフェリシアは酷いなぁ」
頑張っておどけて言ったというのに、フェリシアは少しも笑ってくれない。それでローゼは仕方なく続ける。
「ジェラルドさんも『忘れろ』って言ってたでしょ? アーヴィンはもう死んだんだ、って。……あたしも、そう考える」
「いいえ、いいえ、いけません、ローゼ」
「いけませんって言われても困るよ。だって神殿も王家も何もできないくらいの家なんでしょ?」
「はい。神殿も王家も、シャルトス公爵家に対しては無力です。でも、ローゼは北へ行くべきですわ。行って、もう一度アーヴィン様に会わなければ、ローゼはずっと後悔し続けます」
「そんなこと言ったって」
ガタン、と急に大きな音がした。強く吹く風が窓を揺らして立てたものだ。ローゼは思わず肩をびくりとさせたけれど、フェリシアは微動だにせずただ一点だけ、ローゼだけを見つめている。
「ローゼ。北へ行きますわよね? きっときっと行きますわよね?」
「あたしは」
「それともローゼはもう、アーヴィン様にお会いしたくありませんの?」
――会いたくない?
ローゼは「もちろん」と言おうと思った。それなのに、わななく唇が押し出したのは違う言葉だった。
「……会いたいに、決まってるでしょ」
声が震える。目に涙があふれてくる。
「だけど、無理よ。神殿が手出しできなくて、王家も手出しできなくて。あたしひとりだけで、何ができるっていうの」
昨夜の屋敷前の状況だけでも明らかだ。「会いたい」と言って会いに行ける相手のはずがない。
「どうしようもないでしょう? 諦めるしか、ないでしょう?」
事情があってもう会えないなら、せめて最後に言いたかったことがある。だけど彼にはもう、何も伝えられない。
「こんなことに、なるなら……!」
その先は言葉にならない。
フェリシアが立ち上がり、慟哭するローゼを抱きしめてくれた。