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余話:モーリス

 このところずっと騒がしかったモーリス・アレン大神官の周囲は、最近になってようやく落ち着きを見せてきていた。

 一時は大勢の気配がモーリスを付け回していた。室外だけではなく、執務室の中でだって気は抜けなかった。うっかりペンを落とすだけで窓の外から笑い声が聞こえてくるものだから、昼間でもカーテンを開けることができなかったくらいだ。


 そもそもモーリスは自分が下の者たちから好かれていないことを知っていた。けれども同時に「そんなものはどうでも良い」とも思っていた。


 下位の者などは自身が上にあがるときに役立ちはしない。もちろん役に立つこともある人物――例えば、上位の身分の子女など――は自分より下の立場だろうと丁重に扱うが、結局はそれも戦略のひとつ。

 モーリスにとって“自分以外の相手”というのは利用価値の有無でしか見る必要のないものだ。その信念に従って行動してきたおかげで五十代の前半には大神官の地位を得ることができた。下級貴族の四男であった過去を考えるのなら、これは間違いなく大出世だ。モーリスの前途はこのまま順調かと思われた。


 しかし。


 六十歳になったこの年、非常に厄介なことが起きた。

 それが鳥文とりぶみに関する一件だ。


 十一振目の聖剣の主が四百年ぶりに現れる、という神託が与えられたときに大神殿の中は大いににぎわった。その中で苦い顔をしていたものは何人もいただろうが、中でも一番はモーリスだったろう。

 聖剣の主といえば神殿関係者の中で二番目の地位を持つ者。国の爵位では伯爵相当であり、モーリスが就いている子爵相当の大神官より上だ。そこに加わるのが、辺境の村に住む平民の小娘だとは。


(ふざけるな!)


 今までモーリスは上位の人物との伝手を重ね、人脈を広げ、少しずつのしあがってきた。しかしただの平民の娘が、ただの幸運だけであっさりと自身の上位に就く。これは絶対に許せないことだった。

 その一心で邪魔をしてやろうと決め、モーリスは作戦を考えた。万一を考えて幾重にも予備の言い訳を作り、各方面への根回しも済ませ、すべてを万端の状態にしておいた。計画はうまくいくはずだった。

 誤算だったのはあの小娘が想像以上に気が強かったこと。そしてグラス村の神官が、大神殿に対する慣例を無視するような人物だったことだ。


 グラス村の神官であるアーヴィン・レスターという男のことはモーリスも覚えている。神官見習いだった彼のことを、ハイドルフ大神官が妙に気にかけていたからだ。それでいったいどんな存在なのか気になり、こっそり出自を調べたことがあった。


 アーヴィン・レスターの出身地は王都ということになっていたが、王都に住むいくつかの“レスター”という家には「アーヴィン」なる人物がいなかった。しかしその中にひとつだけ住人がはっきりしていない家があった。息女が死去したのを最後に系譜が絶えている、騎士階級のレスター家だ。


 おそらく、とモーリスは思った。

 王都に籍を置きたい地方の小金持ちがこの姓を買ったのだ。そういった話はたまにある。

 そしてその斡旋にハイドルフ大神官の実家が関わっているに違いない。


(ハイドルフの奴は商家の生まれだからな)


 つまりハイドルフ大神官とアーヴィン・レスターは、販売人と顧客の関係だ。ならばハイドルフ大神官が目をかけるのも分かるし、モーリスにとっては何の益もない。

 そう結論付けて放置していたというのに、まさかこんな事態を招くとは思わなかった――。


 思わず歯噛みしたところで扉が叩かれ、モーリスの麾下きかである神官が姿を見せた。手にはカップを持っている。そういえば馴染みの商人が持ってきた茶を淹れるよう申し伝えていたことをモーリスは思い出した。

 机に置かれたカップから立ち上る香りは上品だ。充分に楽しんだあと一口茶をすすり、モーリスは、ほう、と息を吐く。


「美味い」


 えぐみはほとんど無いし、後口もいい。今まで飲んだ中でも屈指の一品だ。

 これは南方の限られた場所でしか生産されていない茶葉で、王都の中でも扱っている商人はごくわずかなのだと聞いた。きっと手土産にすれば喜ばれることだろう。


(そう。例えば、北方地域では手に入らないだろうしな)


 モーリスは引き出しを開けて一通の手紙を取り出す。差出人はヴァーレマン・クラレス。シャルトス公爵家の分家にあたり、北方においてはシャルトス家に次いで力を持つクラレス伯爵家の当主だ。


(西の辺境へ行ったときは、このような事態になるなど思いもしなかったが……)


 おそらくクラレス伯爵からの手紙を受け取った人物は他にもいるだろう。しかし手紙に書いてあった『夕焼け色のたてがみを持つ馬』をいち早く見つけたのはモーリスだ。

 おかげで「アーヴィン・レスターこそがエリオット・シャルトスなのではないか」と最初に連絡することができたし、クラレス伯爵令嬢マリエラをお披露目会で案内するという栄誉まで授かることもできた。ウォルス教への礼儀を持たないマリエラが白いドレスを着てきたので周囲からは不審な目を向けられたが、そんなことはこの先のことを考えるのなら些細な問題でしかない。


 とにかくこれでモーリスには北との繋がりができた。そしてアーヴィン・レスターがいなくなったことであの生意気な小娘は消沈して力を失う。少しばかり遠回りをしたが、すべては丸く収まる。いや、むしろ、モーリスにとって良い方向へ進むのだ。


 モーリスは晴れ晴れとした気分で手紙をしまう。カップを手に取って中身を飲み干し、控えていた神官に同じ茶をもう一杯要求した。


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