レアラは懐かしい、それでいてすっかり忘れていた夢を見ていた。
聖女の庭園フィレニエムでの厳しい生活に耐え、ようやく聖女として独り立ちした頃にまで遡っている。
北方、とある小国の視察に単独で訪れていたレアラは、夜の森ですっかり迷子になっていた。
文字通り、この地域では彷徨の森と呼ばれる、針葉樹が延々と続く広大な樹林帯だ。
「おかしいです。この道は先ほど通った記憶があります。どうやら、いえいえ、そんなはずはありません。聖女たるこのわたくしが、道に迷うなど」
類稀な才能を持つレアラは、早くから大聖女候補と目されている。
完璧に見えるレアラも人の子、幾つかの欠点を抱えている。その一つが、今いる場所でいかんなく発揮されていた。
そう、レアラはどうしようもないほどの方向音痴なのだ。
「そうです。ずっと同じような針葉樹が続いているのが悪いのです。目印となる聖魔術を一定間隔で刻んでおけば問題ありません」
それから歩くこと数刻、立ち止まったレアラの目に飛び込んできたのは、まさかの聖魔術刻印だった。間違いなく、出発地点として最初に刻んだものだ。
「あり得ません。断じてあり得ません。そうです。これは幻影魔術に違いありません。よからぬ者が、この道を抜けようとする者に邪まなことをしようと」
自分で口にしておきながら、その光景を思い浮かべたレアラは思わず両腕を抱え込み、肌を震わせている。
聖女の庭園フィレニエムの規則では、聖女の視察には必ず護衛の者が一名以上同行することになっている。
十歳という幼さの残る年齢で聖女に抜擢されたレアラにこそ、護衛が必要にもかかわらず、無下に却下していた。
今さらながらにそのことを激しく後悔している。
「仕方がありません。誰よりも強い好奇心がそうさせてしまったのです。それにしても、この森に入ってからどれほどの時間が経つのでしょうか。どうやら今晩は野宿決定です」
今晩は、ではない。今晩も、だ。
聖女が連日、しかも一人で野宿している、などど庭園主に知られたら、お尻百叩きの刑は免れない。
これは十歳のレアラへの刑でもあり、年齢が高くなると相応の刑に変わっていく。レアラは再び身体を震わせる。
「真っ平ご免です。あの刑を受けると、お尻が腫れ上がって、しばらく動けなくなるのです。困ったものです」
既に二度も刑を受けているレアラには切実な問題だった。
レアラはこれ以上歩くのを諦め、早速とばかりに寝床の準備に取りかかる。
その直後のことだ。レアラはただならない気配を感じ、咄嗟に頭を下げながら、気配の方向に鋭い視線と探知のための聖魔術を投げかける。
「この気配、いったいなんでしょうか。明らかに
レアラが暮らす主物質界には、
彼らの生態は千差万別、人に害をもたらすものもいれば、益をもたらすものもいる。
森林帯、そして夜は彼らの恰好の活動場であり、狩りの場でもある。夜行性の
レアラは用心のために周囲に聖魔術結界を展開している。結界内にいれば安心とはいえ、油断はできない。
「わ、わたくしを食べるつもりなのでしょうか」
いくら度胸が据わっているレアラといえども、得体の知れない気配を前に一人は心細い。
「こんなことになるなら、やはり護衛の方を」
突然、羽ばたきにも似た大きな音が静寂に包まれた樹々を騒がせる。音は樹々の合間を駆け抜けながら、木霊となって周囲をざわつかせる。
「ひゃうっ」
レアラの口から何とも情けない驚きに満ちた声が漏れていた。
「お、驚かさないでください。怖くは、ありません。ありませんが、いきなりこのような音を立てるのは、反則です」
誰にともなく、ぶつぶつ文句を呟くレアラは、音がした方向に躊躇いがちに目を向ける。
聖女とはいえ、普通の人間だ。極端に夜目が利くような特殊能力は持ち合わせていない。
今、レアラの目の前には無限の闇が広がっているだけだ。
闇を切り裂くかのように、鳴き声が響いてくる。
レアラは身体を強張らせ、立ち竦んでしまう。
「まさか、飛行能力を持った
まるで、レアラの呟きが聞こえていたかのようだった。
最初に聞こえた羽ばたきにも似た音に比べて、今の鳴き声ははるかに小さく、意外と耳にも心地よく感じられる。
「わたくしに気を使ってくださっているのでしょうか。それとも、油断させておいて、やはりわたくしを」
優れた聖女は、置かれた状況下であらゆる場合を想定し、対処しなければならない。
聖女が真に救うべきは、生あるものの命だ。そのための努力は決して怠ってはならない。
聖女の庭園フィレニエムで最初に教えられる聖女としての根幹でもある。