今しがたまでジェレネディエの傍にいたはずがどうして、とばかりに咄嗟に振り返る。
幻影ではない。レアラの目は確かにモティエルナの姿を捉えた。
いつの間にと思ったのも束の間、このままでは二人とも致命傷は避けられない。
レアラの心から恐怖が消え去ることはない。
それでも、大切な友達を守るため、大聖女としての使命を全うするため、自分自身にできる最大限のことをやりきる。
「わたくしは、もう大聖女ではないのでしょう。それでも、誰かを守りたいという気持ちは全く衰えていません」
思いが力になる。レアラの全身を清冽な聖魔力が覆っていく。
「いいよ。凄まじいばかりの聖魔力だね。大聖女レアラ、これで最後にするよ。見事に守り抜いて、ご褒美を手に入れてごらんよ」
ジェレネディエもまた迷いを完全に断ち切り、強固な意思をもって掲げた両手を振り下ろす。
撃ち出されると同時、氷の粒がジェレネディエとレアラの中間点に達したところで宙に静止、たちどころに姿を変えていく。
両手を突き出しながら光壁に心血を注いでいるレアラは、なおも恐怖に縛られ続けている。一度植え付けられた凄まじいまでの恐怖は、容易く消え去るものではない。
それが今、ジェレネディエの魔術を目の当たりにして極大化してしまった。
ジェレネディエが最後に放った氷の粒は、今や完璧に別の姿を変わっている。
「ああ、あああ、このようなところで、また、いや、いやです。絶対にいやです」
美しい顔が苦悶に歪み、魔力を集める両手が、両腕が大きく震え出す。それはそのまま魔力制御を不安定にしていく。当然、魔力伸展にも影響が出ていた。
レアラの両手をそっと握る手がある。
モティエルナがいつしか背後に立ち、両手を回して抱きしめながら、レアラの両手を強く握りしめていた。
「大丈夫だよ、レアラ。私がついているから。落ち着いて、私の言うとおりにするの。これを克服しなければ、レアラは一生苦しみ続けるだけだよ。だから、ここで断ち切らなけれならないの」
氷の粒は今や巨大な炎と化している。しかも通常の炎ではない。赤き炎ではない。
まさにあの時、レアラの全身を焼き尽くした漆黒の獄焔だ。獰猛な蛇のごとく、レアラを射竦めている。
「モティエルナ、どうして、どうして、あの獄焔が。わたくし、とても怖いのです。あれを前にすると、身体が硬直してしまって」
レアラの恐怖に囚われた感情がモティエルナにひしひしと伝わってくる。
「目の前の獄焔は、ジェレネディエ様が魔術で作り出したものだよ。あの時のものとは根本的に違う。私が導いてあげる。レアラ、私に全てを委ねるの」
モティエルナはレアラの両手首に、自身の細い三本の指先を立て、優しく肌に突き立てる。
「えっ、ちょっと、モティエルナ、なにを」
突然のモティエルナの行動に、レアラはたまらず大声をあげていた。
「いいから、いいから。レアラは黙って、目の前に集中してなさいね」
集中などできるわけがない。
モティエルナの指が血管に沿って柔肌をゆっくりと滑り上がってくる。
レアラは羞恥心いっぱいに頬を赤く染めている。
モティエルナの指は腕から肩にまで達し、そこから鎖骨を経て首の真下に移動した。左右の指三本がここで重なり合う。
「レアラ、少しだけ我慢してね。それからね。私が初めての人になるだろうから、先に謝っておくね」
言っている意味が全く分からない。
レアラはなにをするつもりなのか尋ねようと振り返る。その矢先だった。
モティエルナの指が、いきなりレアラの控えめな胸の谷間に滑り込み、心臓の真上で止まる。
「モティエルナ、あなた、なにを」
次の瞬間、レアラはたまらず呻き声を発していた。
モティエルナの指先に鋭利な爪が現れ、左右三本の爪が同時にレアラの心臓を柔肌の上から貫いていった。
「レアラ、もう少しの辛抱だよ」
これで終わったわけではない。モティエルナが仕上げに入る。
唇をもって、レアラの後ろ髪を掻き分け、露わになったうなじにそっと押し付ける。モティエルナは僅かに口を開いた。
上歯に二本の細く鋭利な牙が生えている。
「ごめんね、レアラ」
モティエルナは牙をもって、レアラのうなじに嚙みついた。
レアラの表情が苦痛に歪み、それから甘い吐息にも似た声が漏れた。それも一瞬だった。
「よくやったよ、モティエルナ」
全ての行程を確認し終えたジェレネディエが、宙で静止したままの漆黒の獄焔を解き放った。
レアラは心臓とうなじを貫かれているにもかかわらず、全く痛みを感じていない。それどころか全身を心地よい熱が駆け巡っている。
無意識のうちに両手指先に魔力が凝縮していく。それは一点の曇りもない澄み切った淡い青に染まる魔力だ。
「この魔力、まさか、究聖魔力なのですか。どうして、わたくし、未だかつて一度たりとも発現したことがないというのに」
混乱するレアラをよそに、ジェレネディエの放った漆黒の獄焔が眼前に迫り来る。
モティエルナはレアラのうなじに噛みついた牙を強く食い込ませ、牙を通して魔力の吐息を送り込んだ。
瞬時にレアラの体内を恐ろしいほどの魔力が駆け巡る。
レアラはなにを思ったのか、身を守るための聖なる光壁を解除した。
無防備状態のレアラに、真正面からひと際大きな漆黒の獄焔、さらに四隅でくすぶっていた氷の粒までが獄焔と化して襲いかかる。
「もう大丈夫、準備は整ったよ。さあ、今こそ扉を開くんだ。それはレアラの呼び声を待っているから」
モティエルナはうなじから牙をゆっくりと抜き去り、静かに後ずさっていく。
レアラの全身を覆う清冽な聖魔力が厚みを増し、淡青色に美しく煌めいている。
「扉を開くための鍵、わたくしの中に眠る」
漆黒の獄焔がレアラを食わんと四方八方から押し寄せる。レアラは前面に軽く右手を持ち上げる。
「その言葉は」
右手が淡青色に染まっている。
「普遍の無垢なる愛」
レアラの唇から滑り降りた言霊が、全身を包む魔力をひと際強く輝かせたかと思うと、津波となって漆黒の獄焔を呑み込んでいった。
漆黒がたちまち淡青に塗り替えられていく。
「すごいね。秘めた力がここまでとは。これは僕もちょっと危ないかも」
ジェレネディエの放った漆黒の獄焔が淡青に塗り替えらえた刹那、蒼焔と姿形を変えて、術者のもとへ跳ね返っていく。
「うん、そうなるよね。もちろん、僕は想定済みだったよ」
ジェレネディエが指先で宙に大きな正円を描き出す。
それは虚空を削り取り、深闇の空洞を作り上げていった。跳ね返った蒼焔があっという間に空洞内部に吸い込まれていく。
「はい、お終い。これ以上は無意味だね。モティエルナ、もういいよ。大聖女レアラを正気に戻してあげなよ」
モティエルナが再びレアラのすぐ傍に近寄り、先ほどと同じ場所、うなじに二本の牙を突き立てる。
今度は吐息ではなく、吸息でレアラの体内に送り込んだ魔力の残滓を吸い取っていった。
レアラの全身を覆っていた淡い青の魔力がたちどころに薄まっていく。分厚かった層も消えていく。
レアラはそのまま意識を失い、モティエルナにもたれかかるように倒れ込んでいった。