玉座の間に一歩足を踏み入れた途端、違和感に囚われていた。
「なんでしょうか。肌に絡みつくような魔力を感じます」
レアラを先導するタシュラデルから、真正面最奥に立つひと際巨大な氷の玉座まで、一直線に青紫の絨毯が敷き詰められ、強烈な冷気を噴き上げている。
冥王の姿は玉座にない。レアラは前を向いたまま小声で尋ねる。
「タシュラデルさん、冥王様がいらっしゃらないようですが」
振り返らずに即答で返す。
「大聖女レアラ様、冥王様は玉座におられます。玉座の間は強力な幻惑魔術で支配されています。とりわけ、玉座は念入りなのです。それ故に、そこにいらっしゃると強く認識しなければ、お姿を捉えられないのです」
レアラは礼を述べると、玉座に意識を集中、先ほど出会ったばかりの冥王の姿を脳裏に描き、そこにいると強く念じる。
玉座が次第に朧に包まれていく。ゆらゆらと揺れ動きながら、ゆっくりと男の姿を纏っていく。
「冥王様です」
レアラは呟きを零すと、意識を玉座から冥王に移す。
二人の視線が繋がる。
レアラは僅かに胸が跳ねた自分に驚きつつも、小さく頭を下げた。レアラには、冥王が微かに笑みを浮かべたようにも見えた。
冥王の最も近くに立つ男が言葉を発している。冥王が頷いたのと同時だった。
強烈な殺気が襲いかかってきた。
玉座の前に人の姿をした四人が陣取っている。ジェレネディエの姿が見えることから、あれが四天王なのだろう、その中の一人からだった。
試されている。レアラは直感した。
物質界では日常茶飯事だった。
大聖女とはいえ、一部の信仰心の薄い大貴族はレアラたちを身分の低い卑しい者として見下してきた。
「ジェレネディエ様の魔力とは違います。どなたかは存じませんが、これなら」
レアラにだけ聞こえるように背後からモティエルナが話しかけてくる。
「ウィントゥーラ様だよ。四天王の中で最も苛烈で容赦のない御方だから、くれぐれも用心して」
レアラの手をきゅっと握ってくるモティエルナの気持ちが嬉しい。レアラも握り返すと、静かに聖魔力を練り上げていった。
「感づかれました。一瞬ですか」
これが物質界なら、気づけた者はいなかっただろう。
「大聖女レアラ様、来ます」
タシュラデルの言葉よりも早く、レアラも魔力のうねりを察知している。
「ほう、わらわよりも、そこな女の味方をするのかえ。冥界のものとも思えぬな。ついでに殺してしまおうかの」
物騒な言葉をいとも簡単に吐き出したウィントゥーラが、殺意みなぎる目を向けてきている。
放たれた魔力は精緻で複雑、そして荒れ狂う波のように激しい。
しかも、モティエルナでも、タシュラデルでもない、レアラだけを標的にしている。恐ろしいばかりの精度だった。
「問題ありません」
レアラは右手を前に軽く突き出し、純粋に練り上げた聖魔力を一気に解き放つ。
八つの光点が宙に走り、レアラを完全内包する光壁が即座に立ち上がった。
モティエルナとタシュラデル、そしてジェレネディエ以外の誰もが、驚愕の表情に変わっている。
「ほう、やるではないか。見事な結界じゃな」
ウィントゥーラでさえ例外ではなかった。
「モティエルナ、タシュラデルさん」
二人は即座に行動に移り、その場から離脱した。
「レアラ、魔力伸展よ」
モティエルナは離脱寸前、その言葉だけを残していった。
「これも、ジェレネディエ様とモティエルナのおかげです。今のわたくしでしたら」
レアラは立方体の光壁によって前後左右さらに天地と、全く隙のない状態で守られている。
そこへウィントゥーラの放った魔力が変則軌道を描きながら四方八方より押し寄せ、光壁と激突した。
攻撃が接触した瞬間、光壁全体を包み込んでいく。
一点突破で穿ちにかかると予想していたレアラの予測は見事に裏切られていた。
「わたくしの目には、薄い魔力の波が濃淡をつけながら這い回っているように見えます」
ウィントゥーラの魔術は、ジェレネディエのそれとは様相が全く違っている。
「これは蛇です。巻きつき、じわじわと締めあげながら、弱い部分を見つけ出し、そこから食い尽くす。恐ろしいです」
口にしながらも、そこまでの恐ろしさは感じてはいない。偏にジェレネディエの魔術をあれだけ浴びたおかげだ。だからこその均一の魔力伸展だった。
玉座の周囲が俄かに騒がしくなっている。
モティエルナとタシュラデルは気づいている一方で、レアラは光壁に全神経を集中しているため、なにが起こっているのかわからなかった。
「短期間で習得できないのは当然です。だからこそ、わたくしは努力を怠るわけにはいかないのです」
光壁の隅々にまで意識を行き渡らせたレアラは、ウィントゥーラの魔力が食い破ろうとしている魔力伸展の薄い部分に全神経を集中した。
「全部で五ヶ所です。わたくしもまだまだです」
遠く離れていても、レアラの声は確実にウィントゥーラが拾い上げている。
「これは面白いの。抵抗してくれなければ、わらわもやり甲斐がないでの。では、遠慮なく食い破ってくれようぞ。小娘がどこまで対処できるか見ものじゃな」
口角を大きく上げたウィントゥーラの身体から青藍に煌めく魔力が溢れ出し、呼応するかのごとく光壁を蝕んでいる魔力もまた同色に輝く。
「わたくしくは、負けません」
負けず嫌いのレアラの本領発揮だ。
青藍の魔力が凄まじいうねりとなって鎌首をもたげ、鋭利な牙を形作っていく。それはまさしく蛇そのものだ。
直後、甲高い破裂音が響き渡り、光壁の周囲を凍気の渦が満たしていく。
「レアラ」
「大聖女レアラ様」
モティエルナとタシュラデルの悲鳴にも似た叫び声が重なった。