タシュラデルの歩みがいつしか止まっている。
俯き加減のレアラは気づくのが少しばかり遅れてしまった。
頭を上げた途端、額をタシュラデルの背中にぶつけ、反動で身体が後方へ倒れていく。
「ちょっと、レアラったら、何してるのよ」
姉の声にすかさず振り返り、慌てて手を差し伸べるタシュラデルよりも早く、モティエルナがレアラの身体を抱き止めていた。
タシュラデルは空を切った自分の手を虚しく見つめ、すかさず文句をつける。
「姉さん、どうして邪魔するんだよ。せっかく、せっかく、この俺が大聖女レアラ様を受け止めようと」
途中まで言いかけたタシュラデルの悔しげな表情が一変する。
「ね、ね、姉さん、ど、どこを掴んでいるんだよ。は、早く離せよ。大聖女レアラ様がいやがってるじゃないか」
目が点になっているタシュラデルがいったいどこを見ているのか。
「うん、小ぶりでいい感じかな。私としてはもうちょっと大きくてもいいかなあ、なんて思ったりもするけど。冥王様もきっとお気に召すはず」
モティエルナの両手を強引に引き離したレアラは、振り向きざま、脳天に勢いよく手刀を叩き込んでいた。
「い、痛いよ、レアラ、いきなりなにするのよ」
両手で頭を押さえて涙目のモティエルナが抗議してくる。
「それはわたくしの台詞です。助けてくださって感謝いたしますが、いったいどこを鷲掴みにしているのです。し、しかも、小ぶりだなんて、わたくしは」
その先は恥ずかしくて言えない。
刹那、玉座の傍から、大きな咳払いの音が立て続けに三度聞こえてきた。
全てが違う音だった。我関せずを貫くウィントゥーラを除く三人からだ。
彼らは一様に奇異な目でレアラを見つめている。
「大聖女レアラ、君は本当にとんでもないね。冥王様と僕たち四天王を前に、そんなことができるんだから。肝が据わっているのか、それとも」
ジェレネディエの言葉を奪って、横からナーサレアロが興味津々とばかりに口を開く。相変わらず、瞳はほぼ閉じられたままだ。
「お初にお目にかかる。大聖女殿、俺は四天王のナーサレアロだ。モティエルナの言葉は確かにその通りだ。それを貴殿が気に病む必要はない。あれほどの聖魔術を浴びるのは俺も初めてだったが、慣れれば意外に心地よいものだったよ」
僅かに笑みを浮かべているナーサレアロの視線がモティエルナに移り、頷いてみせた。
モティエルナが背後から小声で、直属の上司だと伝えてくる。
レアラは謝意を伝えるために頭を下げた。
「大聖女殿、これで三度目だ。そうそう頭を下げるものではないと思うが。なにしろ、貴殿はこれより主の妃となられる御方だ。すなわち、俺たち四天王の上司ということと等しい」
即座に疑問を呈する声が二方向から上がった。
一つは言うまでもなくレアラであり、もう一つはロシュクヴールだ。
「あ、あの、ナーサレアロ様、それは、その、本当に、わたくしが」
レアラはしどろもどろで、自分でもなにを言っているのかよく分からない。
頬が熱くなっているのがわかる。思わず頬を隠すように両手で押さえる。
常に冷静沈着なレアラも、さすがに心に余裕がない状況では思考もまとまらない。
「ちょっと待て。ナーサレアロ、貴様が勝手に話を進めるでないわ。我ら四天王、貴様を除いて反対の立場を我が主に明確にお伝えしておるのだ」
ナーサレアロは鼻で笑って言葉を返す。ロシュクヴールが四天王筆頭であろうと容赦なしだ。
「君たちの意思がどうであろうと構わない。主が決断されたことを覆すだけの力はないのだからな。ロシュクヴール、それに他の二人もだ。わからないのか。あえて君たちに大聖女殿を妃にすると伝えた主の真意が」
意表を突かれたロシュクヴールがすかさずジェレネディエとウィントゥーラに問いかける。
「わかるはずなかろうて。わらわは考えるのがきらいなのじゃ。それはロシュクヴール、お主がよくわかっておるであろうよ」
ウィントゥーラがすげないのはいつものことだ。ロシュクヴールも全く気にしていない。
「僕もあの時はさすがに反対したけどさ、主様のお言葉、そしてロシュクヴール、君の話と組み合わせることで、ようやく気づいたんだよね。僕もまだまだだよね。すぐにでも気づくべきだったよ」
「どういうことだ。我が主のお言葉のみならず、我の話を聞いて、だと」
ジェレネディエが首を縦に振っている。
ウィントゥーラもナーサレアロも興味を引かれたのか、三人の視線が揃ってジェレネディエに注がれる。
「そうだよ。僕の夢幻廻楼の力は知ってるよね。不吉な出来事の暗示、僕はその原因が突如冥界に現れた大聖女レアラと四人の聖女だと思っていたんだよ。でもさ、君だけが知っている事実があったよね」
小気味のいい一つの破裂音が鳴った。
ナーサレアロが手のひらを拳で叩いた音だった。
「なるほどな。俺も理解した。さしづめ聖女殿たちは切り札でもあるようだ。中でも大聖女殿は特別、あれほどの聖魔術を見せられては納得するしかあるまい」
三人そっちのけで話を進めてしまうナーサレアロに、皆が不満の声をあげている。
「余の四天王よ、気づくのが遅すぎるのではないか。余はこの時のために長き時間をかけて準備してきたのだ」
恐ろしいほどの凍気が玉座の周囲を満たし、冥王が立ち上がった。
四天王に先ほどまでの比較的和気あいあいとした雰囲気は一切見られない。
玉座に向かって左手にロシュクヴールとウィントゥーラ、右手にジェレネディエとナーサレアロが別れて片膝を落とした姿勢で主たる冥王に頭を下げている。
「大聖女レアラよ、遠慮は要らぬ。玉座の前まで来るがよい。そなたを心から歓迎する」
冥王は腰を下ろさず、レアラを見つめている。その瞳には、冷たさの中に温もりが見て取れた。
「わたくしくは本当に歓迎されているのでしょうか。冥王様のもとにこのまま歩み寄っても構わないのでしょうか」
鼓動がうるさいほど暴れている。
レアラは落ち着こうと何度も深呼吸を繰り返しながら、素直に応じてよいものなのか、迷っていた。
誰かが後押しのひと言をかけてくれさえすれば。レアラの気持ちはしっかり伝わっていた。
「大聖女レアラ様、冥王様がお待ちですよ。参りましょう」
タシュラデルに続いて、モティエルナも口を開く。
「レアラ、なにを遠慮してるのよ。冥王様が来いと仰っているのよ。それに歓迎するとまで。早く行かないと」
だめ押しは、やはりジェレネディエだった。
「大聖女レアラ、僕との魔術合わせはあれほど楽しんでいたじゃないか。主様は僕以上なんだよ。ほら、早くこっちに来なよ。主様がしびれを切らしてしまうからさ」
冥王が小声で「よけいなことを言うでない」と嗜めている。
その声はしっかりレアラにも届いていた。
ようやく決心がついたレアラは、タシュラデルとモティエルナに促されて、玉座の前まで歩み寄っていった。