レアラをここまで誘ったタシュラデルとモティエルナが、真の主たる冥王に深々とお辞儀を送り、その場から静かに離れていく。
「大聖女レアラ様、俺の役目はここまでです。あなた様を先導できたこと、一生の思い出です」
屈託のない笑みを見せたタシュラデルは、レアラにも等しく頭を下げた。
「誠に大儀でした。感謝いたします」
モティエルナも弟同様に声をかけてくる。
「レアラ、私も行くね。ここからは一人だからちょっと心配だけど、レアラならきっと大丈夫」
そろって二人が傍からいなくなると寂しくも感じてしまう。
これで玉座の冥王とレアラとの間を遮るものはなにもなくなった。
玉座は他よりも数段高くなっている。必然的に冥王がレアラを見下ろす形だ。
「身長差は致し方なしとしても、これでは余の妻に対して非礼であるな」
冥王はゆったりとした足取りで玉座の階段を下りてくる。
レアラはその場に立ち止まったまま、一歩も動けないでいる。四天王も頭を垂れたまま動かない。
氷の床を叩く硬質音だけが玉座の間に鋭く響き渡る。
冥王が一歩踏みしめる度に音は大きく反響、比例してレアラの鼓動も膨れていく。
最後の反響音を残して冥王の足が止まった。
しばし見つめ合うこと数刻、冥王はゆっくりと手を伸ばし、レアラの頬に触れる。
「大聖女レアラ、未だ顔が赤いな。余の力をもってしても、忌まわしきあの焔の影響を消し去ってやれぬ。余を許してほしい」
火照った頬に触れた冥王の氷のように冷たい手が、今はなぜか心地よい。
「あ、あの、冥王様、その」
勘違いです。
レアラはそれだけのことを伝えられないもどかしさを感じている。
冥王は続きの言葉を待っている。
その間も指が頬に触れたまま、小さく動いている。
触れた傍から静かに熱が奪われていく。凍結しない繊細な温度でレアラの火照りを拭っている。
「お手を、その、離しては、いただけないでしょうか。わたくし、こういうことには、慣れていないのです」
レアラは消え入るような声で呟く。
動かしていた指が止まる。怪訝な表情になっている冥王がレアラの瞳を覗き込む。
同時にゆっくりと手が離れていく。
レアラが望み、冥王がそれに応じた。
それにもかかわらず、手が離れた途端に切なくなっている。
「大聖女レアラ、余は学んだ。聖女の庭園フィレニエムに属する聖女は在任中、一切の恋愛を禁じられている。確かそうであったな」
レアラの瞳が驚きで大きく開かれる。
「冥王様、そのとおりでございます。聖女の庭園フィレニエムにおける戒律の一つでもありました。ですから、わたくしは」
恋愛の経験はもちろんないし、知識も持ち合わせていない。
幼い頃から聖女の庭園フィレニエムで育てられ、聖女になるためだけに生きてきた。それ以外のことは考えられなかった。
十歳で聖女となり、十七歳の今、聖女の庭園フィレニエムにおける最上位、唯一の大聖女として着実にその義務を果たしてきた。
この先、女神に召されるまで大聖女として生き続ける。
なんの後悔もないし、十分に満ち足りている。
「果たしてそうであろうか。そなたは大聖女である前に、一人の女であろう。そうではあるまいか、レアラ」
冥王は名前を呼ぶなり、レアラを抱き上げる。
横抱き、いわゆるお姫様だっこというものだ。
「はうっ」
口から間の抜けた声が漏れる。
レアラは一切の抵抗もできないまま、冥王の腕の中ですっかりゆでだこ状態になっている。
「め、冥王様、なにをなさって」
冥王の金色の瞳で見つめられ、レアラの身体から自然と力が抜けていく。
「魅了の魔術、そうです。わたくしは魔術にかかっているのです。そうでもなければ」
冥王はわずかに苦笑を浮かべている。
「余が、何故にそなたに魔術を使わねばならぬのか。よりによって魅了など、余の妻に向けるものではないぞ。そうは思わぬか。四人の聖女たちよ」
冥王はお姫様抱っこのまま、入口の扉がよく見えるように身体の向きを変える。
そこにはレアラが命を懸けて守り抜いた四人の聖女が立っていた。
どの表情も微笑ましく、どちらかといえば興味津々とばかりにレアラの姿に釘付けだ。
四人を挟む形で、初めて見る顔が二つ、既に片膝を落とし、頭を下げた状態で待機している。
「あ、あなたたち」
様々な思いがが溢れすぎて、レアラはそれだけしか言葉にできなかった。
「四人の聖女たちよ。そなたたちもこちらに参るがよい。おまえたち、先導せよ」
冥王の言葉に素早く立ち上がった二人が、レアラを誘ったモティエルナとタシュラデルと同じく、四人を前後に挟んでゆっくりと歩み寄ってくる。
四人の聖女は逆年齢で、すなわちメネテロワ、リニエルティ、カタラン、シスメイラの順で並んでいる。
「あ、あの、冥王様、その、そろそろ」
レアラが下ろしてほしいと懇願する前に拒絶の言葉が来た。
「だめだ。そなたはこのまま余の腕の中だ。なにしろ、魅了の魔術にかかっているようだからな。離すと大変なことになる」
少しばかり口角を上げてレアラを見る冥王は金色の瞳は優しさに満ちている。
「ううっ、冥王様は」
言い淀んでいるレアラに、冥王は遠慮なく申せ、とばかりに先を促す。
「冥王様は、意地悪です」
冥王は微笑みながらレアラから片時も視線を外さない。
「そうか、そうか。余は意地悪か。やはり、そなたは面白い」
今や冥王とその腕に抱かれているレアラの二人は注目の的だ。
笑い声をあげる冥王を四天王の誰もが驚きをもって見つめ、なんとも恥ずかしそうにもじもじしているレアラを四人の聖女がこれ以上ないというほどの温かな眼差しで見守っている。
「そなたの本質は、初めて会った十歳のあの頃となにも変わっておらぬ。やはり、そなたは余の妻に相応しい」
言葉が全く出てこないレアラからようやく視線を外した冥王は、 すぐ傍まで近寄ってきた四人の聖女に向かって言葉を発する。
「四人の聖女たちよ、歓迎する。そなたたちも余の話を聞くがよい」
レアラを抱いたままの冥王が足先で軽く床を叩く。
凍気が渦を巻き、玉座に負けず劣らずの椅子を八客作り上げていった。