冥王に一礼、腰を下ろそうとしたレアラは突然平衡感覚を失い、ふらついた。
即座に冥王の手が伸び、レアラの腰回りを支える。
「余の心配をするより、そなた自身の心配をしなければな。精神的損傷が癒えるまで、しばらくかかるであろう。人界では睡眠で回復させるのであろうが、余が話終えるまで耐えてもらいたい。その代わり、と言ってはなんだが」
冥王は静かにレアラの額に指先を近づけ、優しく触れた。
「ひゃぅっ」
驚きと戸惑いが入り交じった、なんとも情けない声が口から漏れる。
「詳しくは、これからの話で語る。まずは余の瞳を見よ。少しは楽になるであろう」
レアラに抗う力はなかった。冥王の金色の瞳に自然と吸い込まれていく。
「ゆっくりと座るがよい。異なる揺れがしばらく続くであろう。当面はそなたの回復に向けて、余が補助する故、聖魔力量で体内循環させるのだ。循環速度は極力遅くだぞ」
冥王の言葉の節々にレアラを思う感情がこめられている。
今のレアラは、言葉の意味のほとんどが理解できていない。自分の中で消化するにも、頭の中が心地よい揺れに支配されている。
「め、冥王様、これは、魔力酔い、なのでしょうか」
瞼が落ちていきそうなレアラに、冥王は小さく頷くだけだ。
精神的損傷から来るふらつきは解消されたものの、別の意味でのふらつきが続く。
冥王はレアラを慎重に座らせ、瞳の奥を覗き込む。
「余の魔力が溶け込んだからだ。そなたの魔力と馴染むまで、さほどの時間は要さぬ。魔力酔いが解消されるまで、掛けているがよい」
冥王は視線を切ると、レアラの頬を優しく撫でて、玉座に戻っていく。レアラは背中に向かって礼を述べた。
「冥王様、いろいろとお聞きしたいことばかりです」
疑問だらけの中、魔力酔い状態のレアラは、循環速度を緩めるため、ゆっくりと息を吸い込み、吸った以上に時間をかけて深く吐き出す。
幾度となく深呼吸を繰り返す。
柔らかな熱を伴った聖魔力が体内を巡る中、レアラは次第に魔力酔いによる揺れが収まっていく感覚を覚えていた。
「さすがは余の妻だ。魔術を正しく理解しておるな。これで安心して話ができる」
レアラが落ち着きを取り戻しつつある。
冥王は玉座からやや離れた位置で居並ぶ四天王、四人の聖女を見渡した。
「待たせたな、余の四天王よ。そして、人界の聖女たちよ。これより両界に関わる重要な話を聞かせる」
言葉を切った冥王がレアラに視線を移し、頷いてみせる。
「事の順を追って全てを語るとなると、膨大な時間を要する。よって、そなたたちがなにゆえに巻き込まれたのかに焦点を絞って話を進める」
冥王の視線が聖女たちではなく、四天王に注がれている。補足は任せたという証でもある。
「主様、僕もナーサレアロも真相に行きついているはずだから、答え合わせも兼ねて補足するよ。ナーサレアロも、それでいいよね」
ジェレネディエが座るべき場所は空席だ。彼女は人化せず、メネテロワの膝の上で丸まったまま言葉を発している。
「主が許すなら、俺に異存はない」
ナーサレアロは片眼鏡をわずかに持ち上げると、右の瞳だけを細めて主の意向を確認する。
「問題ない。おまえたちに任せる」
「御意」
ジェレネディエとナーサレアロの畏敬の念が込められた声が重なった。
「此度の件、人界に対する侵略の一歩だ。人界における争いの裏で糸を引いている奴らがいる。奴らはいずれ人界を滅ぼし、そこを拠点にして冥界へと魔の手を広げてくるであろう」
レアラも四人の聖女も驚愕の表情を浮かべている。
「奴らは用意周到に争いの種をあらゆる場所に蒔き広め、長い時間をかけて発芽の時を待った。聖女たちよ、そなたたちはヴィルドゥアンとラーゲルドラの度重なる戦乱が幾度となく繰り返されることに疑念を抱かなかったか」
四人の聖女が互いに顔を見合わせ、それから一斉にレアラに視線が向けられる。レアラはただ首を横に振るだけだ。
「仕方がないよ。人ってそういう生き物でしょ。それに奴らはなんとも狡猾なんだ。天秤を大きく傾けることなく、互いに何度も削り合わせ、十分に削りきったところで一気に傾けて、片方を滅ぼす。残った片方も戦力は失っている。そこに巧みに入り込んで支配してしまうんだ。これが奴らの常とう手段なんだよ」
絶対的な中立を誇る聖女の庭園フィレニエムには、各国の政治、経済、軍事情勢など様々な情報が集まってくる。
「両国は何度も飽きることなく戦いを繰り返し、その度にあらゆるものが疲弊し、国力が削がれていきました。聖女の庭園フィレニエムとしても危惧はしていたのですが、中立を守る立場から介入せず、両国任せにしてきたのです。なによりも、人とはこういう生き物だからやむを得ない、という固定観念から抜け出せませんでした」
レアラの呟きに対して、ウィントゥーラが厳しい言葉を投げつける。
「見て見ぬふりを決め込んでいたということじゃろ。嘆かわしいの。わらわからすれば、人界の者どもは事を難しく考えすぎなのじゃ」
レアラをはじめ、聖女たちは誰も反論できない。
「ウィントゥーラ、彼女たちを責めても仕方なかろう。彼女たちもまた定められた規律の中で動いているにすぎぬ。それよりも、我が主はいつから奴らの策略にお気づきになっていたのでしょう」
ウィントゥーラを戒めつつ、ロシュクヴールが冥王に尋ねる。
「奴らの不快極まりない波動は常に感じ取っておったが、顕著になったのは百年ほど前であった」
真っ先に反応したのはシスメイラだった。
「ヴィルドゥアンとラーゲルドラ、両国が初めて激突した時期と重なります。これは意味ある一致と捉えてよいのでしょうか」
敬愛する冥王との会話に割って入られたロシュクヴールが大人げなくぶっきらぼうに言葉を返す。
「この世に意味のない行動などない。我が主が仰られたとおり、既に悪意という名の芽は何百年も前から蒔かれていた。そして、発芽時期がまさに百年前であった。偶然であろうはずがないではないか」
さすがに最年長シスメイラ、ロシュクヴールの険のある物言いにも臆せず、柔らかな笑みを向けて頭を下げる。
「私もロシュクヴール様の仰ることに同意いたします。偶然などではない。必然だった。それも仕組まれていた。では、いったい誰が物質界でそのような大それたことをしているのか。冥界の皆様が奴らと呼ぶものの正体は」
冥王も四天王も口を噤んでいる。彼女たちの中から出てくる言葉を待っている。
「カタラン、なにか言いたそうだね。僕はね、この娘の魔術同様、君の高い知力も評価してるんだよ。きっと、いろいろ調べて、学んできているはずなんだ。遠慮せず、言ってごらんよ」
カタランは大聖女レアラや他の聖女を差し置いて、発言すべきか迷っていた。そこへジェレネディエが後押ししてくれた。
「ジェレネディエ様、ありがとうございます。私が考えるに、そこまでの長命かつ狡猾で用意周到、物質界に容易く出入りし、人心掌握にも長けている。さらには、あの祝典で見た馬鹿王子と馬鹿王女は完全に操られていました。あまつさえ魔導具も所持していた」
いいところを突いている、とばかりにジェレネディエが前脚を軽く上げて、可愛い肉球を見せてくる。
「もう一つ、肝心のものが抜けているな。全てを決定づける確固たるものだ」
「ナーサレアロ様、それこそがわたくしを焼いた漆黒の獄焔ですね」
最も相応しい者が、身をもって漆黒の獄焔を味わったレアラが応えた。
腰を下ろしていた冥王が勢いよく立ち上がる。
「そうだ。忌まわしき漆黒の獄焔は、すなわち魔界の獄焔、魔界でも一部のものしか扱えぬ死黒焔だ。人界は魔界の侵攻を受けているのだ」