目を開けると、最初にいた寮の部屋に戻っていた。
椅子に腰掛けたユリウスが、こっちを眺めていた。
「じゃぁ、話を始めよう。早速だけど、君は誰だい?」
ユリウスの目が細まり笑みを消した。探るような鋭い眼だ。
その目を無視して、姿見に駆け寄った。
(ノエル=ワーグナーなんて登場人物、私は作ってない。でも、神様はモブっていった。つまり、物語に関わりが、多少なりともある学生ってことだ)
物語に関わりがない人物はモブですらない。
「この
鏡に映った自分を上から下まで、まじまじと確認する。
(『呪い』のせいでバルコニーから落下して死ぬマリアの友人だ。序盤で死ぬから、名前も何も考えなかった、捨てキャラだ)
乙女ゲーム『フレイヤの剣と聖魔術師』は、主人公の友人が自殺するところから物語が始まる。友人の死をきっかけに『呪い』の解明をしながら、主人公が攻略対象と仲を深める。というのが、前半のストーリーだ。
(この娘が生きていたら、物語が動かない。そもそも『呪い』を受けて生きていること自体、この世界では、異端者扱い!)
『呪い』は千年以上前からこの国に存在する高度魔術で、魔族が残した負の遺産と言われている。現在も明確な解呪法はなく、病のような扱いをされている。『呪い』を受けて生きている者はいない。
(その設定をぶった切ったってことは、この娘、いや、ノエルは、『呪い』の初の生還者ってことになってしまう)
鏡の前に崩れ落ちる。
詰んだ、と思った。
(立て直させるための転生先の体が、生きてちゃいけない人間て、どういうこと? 原作者でもどうにもできないよ。文章書き換えるだけじゃ、解決しないんだぞ)
改めて、あの小さい爺さんに怒りが湧いた。
「あのさぁ、僕のこと完全に忘れているみたいだけど、大丈夫?」
つんつん、と肩を突かれて、振り返る。
顎を掴み上げられ、無理やり上向かされた。
「僕は、君は誰だと、聞いたんだよ?」
迫力のある笑顔が迫る。美しすぎる顔は凄まれると怖い。
「わた、私は、えぇっと」
「僕は君がノエルではない、別の誰かだと、知っている。けど、それ以上は知らない」
(何で、ただの攻略対象でしかないユリウスが、そんなこと知っている訳⁉)
神様とやらは、何も言っていなかった。
一体どんな手違いがあって、世界が滅亡しかけているのか。
キャラたちがどういう状況にあるのか、見当もつかない。
わからないことだらけすぎて、何がわからないのかも、わからない。
「返答次第では、君をこのままには出来ない。考えて、言葉を選ぶといい」
ノエルの顎を掴むユリウスの力が強まる。
怖すぎて動けない。
ごくり、と息を飲んだ。
(ユリウスは、表面上は温厚なキャラ。普段も何を考えているかわからない、ミステリアスキャラだけど、いざという時には一番頼りになるチート設定)
つまり、敵に回すと怖いキャラだ。
今まさに、ユリウスが敵の立ち位置で目の前にいる。
(まだ、異世界に来て一日も経っていないのに、命の危機を二回も感じる羽目になるなんて)
現状に絶望して、涙目になる。
どんな内容だろうと、ユリウスが信じようと信じまいと、言えることを言うしかないと思った。
「私は、物書きをしていた凡庸な一般人で、一度死んだようなのですが。色々あってこの娘の体に魂だけ蘇った、ようです」
自分でもまだ信じられない、聞いたばかりの事実を説明する。
ユリウスが、ぱちくり、と瞬きした。
「ふぅん、凡庸ねぇ。君は、この世界を『呪い』から救う英雄、なんじゃないの?」
「英雄……?」
ユリウスの手が緩み、ようやく解放された。
納得いかないのか、ユリウスがじろじろと観察している。
ユリウスがノエルの胸の辺りで目を止め、じっと見詰めた。
「あの……、ユリウス、さんは、その話、誰から聞いたんですか?」
ユリウスが、にやり、と口端を上げた。
「内緒。良い子にしていたら、そのうち教えてあげるよ」
ノエルの胸にぴたりと手をあてる。
驚いて身を引くと、ユリウスが付いてくる。
更に逃げたら、壁際に追い詰められた。
「それより、君の体の中に魔石が取り込まれているみたいなんだけど、今はそっちを気に掛けたほうが良いんじゃないかな」
ユリウスがノエルの手を取った。
ノエルの手のひらに、文字が浮かび上がる。
(これ、魔法属性だ。そういえば、手のひらで確認できる設定だった)
「属性も、前とは違っているね。とっても希少な全属性適応者だよ。中でも、闇属性特化、僕と同じだ」
この世界の魔法は、火・水・風・土・光・闇の六属性だ。
全属性適応者は滅多にいない。
(闇特化……。なんてマイナーな。世界を救えというのなら光属性特化にしてほしかった)
「魔石の影響が大きいんだろうけど。今の君は、凡庸な体ではないと思うよ」
「魔石……」
魔族由来の魔法道具だ。使い道は色々あるが、魔力を補ったり吸わせたり、魔獣化できたりする。ただし、魔獣化すると人には戻れない。弱い術師が無理に使うと魔石に飲まれて死んだりする。
(良い想像が、一つも浮かばねぇ)
「私、死ぬんでしょうか?」
三度目の命の危機に、顔が俯く。
(異世界転生って、もっと楽しいものじゃないの? 使命感持てって言われても、貧弱物書きに何ができるっていうのさ)
今、この場を乗り切る術すら浮かばない。
頭の上で、ユリウスが吹き出した。
「どうして、そんなに悲観的なの? 悪くない条件が揃っていると思うけど?」
どこが? と思う。
前の世界の死を乗り越えて、モブの『呪い』を回避したのに、魔石の影響で死ぬかもしれない。仮にそれを乗り越えても、ユリウスに消される危険性だって、まだ残っている。
破滅する世界を救いに来たはずなのに、ここで死んだら本当に何をしに来たのか、わからない。
(そうだ、ここで私が死んだら、自分が書いた世界が破滅するかもしれないんだ。そんなのは、作家として我慢ならない)
自分が書き上げた世界を自分以外の何かに壊されるなんて、自分が死ぬより耐えられない。
顔を上げ、ユリウスに向き合う。
「死なないために、この世界で強く生きるために、出来ることってありますか」
ユリウスが表情を変えて、微笑んだ。
「勿論、あるよ」
ユリウスがノエルに唇を重ねる。小さく開いた口から、何かが流れ込んで来た。
「ふぁ……」
唇を押しあてられて、息が止まる。
胸の辺りが熱くなっていく。
体の内側から圧が掛かって、何かが飛び出しそうだった。
思わずユリウスの腕を強く掴む。
やけに明るかった室内が、暗くなった。
(私の体が、光っていたのか?)
唇が離れて、目を開ける。
ユリウスの目に愉悦が滲んでいた。
「君、美味しいね」
ぺろりと、舌舐めずりするユリウスを見て、今起きたことを把握した。
(キ、キスされた。会ったばかりの人に、しかも突然)
日本だったら、犯罪だ。
(顔が良いからって、何やっても許されると思うなよ)
抗議しようとする手を受け止めて、ユリウスがノエルの胸に手をあてた。
本日二度目のセクハラは、流石に許せない。
「何を……」
「僕の魔力を送り込んで魔石を活性化させた。君は魔力量が多いから魔獣化はしないはずだ。あとは、君次第かな」
ユリウスが笑む。
(つまり、私が死なないように、助けてくれた、のか?)
怒りがシュルシュルと萎んでいった。
「強く生きたいんでしょ? できることは、何でもやらないとね」
味方なのか敵なのか、いまいちよくわからない。
けれど、悪い人ではないと感じた。