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第7話 いなくてもいい……

文字盤を見るぼくの後ろで、花音が「ねえ、ねえ」と繰り返す。ぼくはもう、優一のことしか頭になかった。時計が今何時を指しているのなんか、どっちみち分からない。時間の狭間だろうが、時間の外側だろうが行ってやる。そう思った。

いつものように時計の針がぐるぐると回り始める。数字がぐにゃりと歪み、気が遠くなる。眩暈を覚え、やがて目の前が暗くなり、ぼくは目を閉じた。そして期待を込めて、目を開けた。


優一がいる。


テーブルに腰掛け、足をぶらぶらさせながら、こっちを見てゲラゲラと笑っている。


「戻ってくると思ったら、案の定だ」


優一は、ひょいとテーブルから降りた。そして店内を見まわした。


「ここ、小さい頃、父さんと来たことがある」


今でも充分小さいんだけどな。ぼくはそう言いかけてやめる。


「今、花音と一緒なんだ。覚えてるだろ? 花音のこと」

「忘れるわけないだろ。ぼくたちを助けてくれた恩人だよ?」

「そうだね」


小学生の頃、優一とぼくは目立たない存在だった。クラスでも、いてもいなくても分からないような、そんな二人だったと思う。だけどなぜか、花音はそんなぼくたちのことを、いつも気にかけてくれていたようで、時々教室の隅や、のぼり棒の裏にいるぼくたちに声をかけてくれた。「一緒に遊ばない?」「今度わたしに勉強教えてよ」学級委員だったせいだと初めは思っていた。義務感から仕方なく声をかけてくれるのだと。でもある日、そんなぼくたちは、上級生に目をつけられてしまった。体格のいい、6年生三人組。僕たちはなすすべもなく、持っていた小銭を全て奪い取られた。悔しくて、でも何もして返せないことがまた悔しくて、ぼくたち二人はただ黙ってうつむいて、川沿いの道を歩いていた。

しばらく歩いていると、後ろから呼ぶ声が聞こえた。


「恵斗! 優一!」


ぼくらはその声に振り返る。握った右手を掲げながら、走ってきたのは花音だった。


「あー、追いつかないかと思った」


息を切らしながら花音が言った。


「はい、これ」


花音は右手を開いた。手のひらには、汗が滲んだ小銭があった。


「これ……」

「返してもらってきたから」

「え?」

「わたし嫌いなんだよね。負けたまま終わるの」

「でも、どうやって?」

「簡単。返してってはっきりと言っただけ。堂々としてる人に、勝てっこないんだから」


ぼくたちは顔を見合わせた。花音がぼくたちのお金を取り戻してくれたこともだが、その勇気に感服した。


「じゃあね」


走り去ろうとする花音に、優一が慌てて声をかけた。


「ねえ」


花音は振り返った。


「何?」

「……友達に、ならない?」


花音はフッと笑ってこう言った。


「もう友達じゃん」


優一は「うん」と頷いた。


「じゃあまた!」


花音は走って去って行った。

日が傾き始め、影が長く伸びていた。その日から、ぼくたちは二人ではなく三人になった。


「花音と何してたの?」

「何って、ご飯食べてるに決まってるじゃないか」

「そりゃそうだ。今も仲良いんだね」

「あ、いや、昨日久しぶりにあったんだ。中学を卒業してからだから、もう六年ぐらいかな、会ってなかった」

「近くにいるのに?」

「うん、近くにいたのに」

「変なの」

「そうだ、花音がよろしくって。ぼくが優一と会ったって言ったら、半分信じてなかったけどね」

「信じるわけないよ。花音は現実主義者だもん」


優一はそう言って、さっきまで花音がいた椅子に座り、コップの水をぐっと飲み干した。


「これで、信じるんじゃない?」

「え?」

「帰ってみなよ」

「でも」

「いつでも会える。時計さえ回れば。だから安心して戻ってみて。きっと空になったコップに、花音驚くぞー」


そうだ。いつでも会える。ぼくは嬉しくなった。でも戻るということは、また一人、優一をこっちの世界に、時間の狭間ってやつに置いていくようで気が引けた。


「なあ、優一は、ここから抜け出すことはできないのか?」

「抜け出す?」

「ぼくと一緒に、行くことはできないのか」

「どこに?」

「どこにって、現実の世界にだよ」

「……でも、ぼくはそれを、望まない」

「え?」

「戻りたくはないんだ」


優一の表情が明らかに暗くなった。ぼくから目を逸らし、靴のかかとを床にトントンと当てながら、ゆっくりと口を開いた。


「父さんと、ここに来たことがあるって言ったろ? でもね、それ一度きりなんだよ、父さんとご飯を食べたのって。家でもどこでも食べたのはあれ一度きり。父さんは家族を顧みるような人じゃなかったからさ」

「お父さん、医者だろ? 忙しかったんだよ」

「ぼくには分かる。ただ忙しいのか、言い訳かぐらい、見分けがつくよ」


ぼくは言葉に詰まる。


「ぼくはね、いてもいなくても同じなんだ」

「そんな事ない!」


思わず大きな声を出したぼくに驚いたのか、優一は振り向き目を大きく開けた。


「大人になれば分かる。いなくても良い子供なんていない。それに、それに……」

「何?」

「……優一がいなくなって、僕たちがどんなに悲しんだか分かる? どれほど苦しかったか分かる? この十年間、どんな思いで過ごしてきたか」

「……怒らないでよ」

「今、どんな思いでいるのか、分かるかい?」


優一は困った顔をしてうつむいた。無理はない。まだ十歳だ。父親の不在は、きっとあまりにも大きく優一に影響を与えていたのだろう。それに、あの母親……。


「でも、母さんだって、ぼくを嫌ってた」

「嫌ってなんか……」


ぼくは言いかけて、言葉を選べない。優一の母親が優一のことを愛していたのか、ぼくには分からない。教育に熱心だった印象だけが強くある。優一が姿を消したあの日も、こう言った。「帰ってこないと、塾にも行かせられない」そう言って、ぼくの父親をひどく責め立てた。「塾に行かないと、勉強に遅れたら、あなたのせいですからね」ぼくの家の玄関先で言い放ったその言葉に、ぼくも父親も、唖然としたのを覚えている。


「嫌ってなんかないと思うよ……」


優一が姿を消したのは、自らだったのだろうか。


「でもぼくは帰らない。そう決めたから」


頑なに優一は言い張る。

ぼくは何度か優一を説得しようとした。


「じゃあ訊くけど、どうやって戻るって言うんだい?」


その質問に僕は困った。そうだ、どうやって戻るんだ。戻るって、どこに戻るんだ。今の、いや、過去の姿のままの優一が、現実の世界に戻ったらどうなってしまうのか。僕は急に怖くなった。これはやはり、悪い夢なのかもしれない。ふとそんな言葉が頭をよぎる。優一が重い口を開く。


「ねえ、僕はいいんだ。ここには空腹も、幸福もない。僕は何も感じない。恵斗が来てくれたことは嬉しいけど、一人になっても淋しくもないんだ。戻って。恵斗は花音のある世界に戻ってよ」

「花音の……」

「戻ってさ、花音を驚かせて、笑わせてよ。お願い。二人には、笑ってて欲しいんだ」

「優一……」


僕は花音のある世界に、戻ることにした。

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