文字盤を見るぼくの後ろで、花音が「ねえ、ねえ」と繰り返す。ぼくはもう、優一のことしか頭になかった。時計が今何時を指しているのなんか、どっちみち分からない。時間の狭間だろうが、時間の外側だろうが行ってやる。そう思った。
いつものように時計の針がぐるぐると回り始める。数字がぐにゃりと歪み、気が遠くなる。眩暈を覚え、やがて目の前が暗くなり、ぼくは目を閉じた。そして期待を込めて、目を開けた。
優一がいる。
テーブルに腰掛け、足をぶらぶらさせながら、こっちを見てゲラゲラと笑っている。
「戻ってくると思ったら、案の定だ」
優一は、ひょいとテーブルから降りた。そして店内を見まわした。
「ここ、小さい頃、父さんと来たことがある」
今でも充分小さいんだけどな。ぼくはそう言いかけてやめる。
「今、花音と一緒なんだ。覚えてるだろ? 花音のこと」
「忘れるわけないだろ。ぼくたちを助けてくれた恩人だよ?」
「そうだね」
小学生の頃、優一とぼくは目立たない存在だった。クラスでも、いてもいなくても分からないような、そんな二人だったと思う。だけどなぜか、花音はそんなぼくたちのことを、いつも気にかけてくれていたようで、時々教室の隅や、のぼり棒の裏にいるぼくたちに声をかけてくれた。「一緒に遊ばない?」「今度わたしに勉強教えてよ」学級委員だったせいだと初めは思っていた。義務感から仕方なく声をかけてくれるのだと。でもある日、そんなぼくたちは、上級生に目をつけられてしまった。体格のいい、6年生三人組。僕たちはなすすべもなく、持っていた小銭を全て奪い取られた。悔しくて、でも何もして返せないことがまた悔しくて、ぼくたち二人はただ黙ってうつむいて、川沿いの道を歩いていた。
しばらく歩いていると、後ろから呼ぶ声が聞こえた。
「恵斗! 優一!」
ぼくらはその声に振り返る。握った右手を掲げながら、走ってきたのは花音だった。
「あー、追いつかないかと思った」
息を切らしながら花音が言った。
「はい、これ」
花音は右手を開いた。手のひらには、汗が滲んだ小銭があった。
「これ……」
「返してもらってきたから」
「え?」
「わたし嫌いなんだよね。負けたまま終わるの」
「でも、どうやって?」
「簡単。返してってはっきりと言っただけ。堂々としてる人に、勝てっこないんだから」
ぼくたちは顔を見合わせた。花音がぼくたちのお金を取り戻してくれたこともだが、その勇気に感服した。
「じゃあね」
走り去ろうとする花音に、優一が慌てて声をかけた。
「ねえ」
花音は振り返った。
「何?」
「……友達に、ならない?」
花音はフッと笑ってこう言った。
「もう友達じゃん」
優一は「うん」と頷いた。
「じゃあまた!」
花音は走って去って行った。
日が傾き始め、影が長く伸びていた。その日から、ぼくたちは二人ではなく三人になった。
「花音と何してたの?」
「何って、ご飯食べてるに決まってるじゃないか」
「そりゃそうだ。今も仲良いんだね」
「あ、いや、昨日久しぶりにあったんだ。中学を卒業してからだから、もう六年ぐらいかな、会ってなかった」
「近くにいるのに?」
「うん、近くにいたのに」
「変なの」
「そうだ、花音がよろしくって。ぼくが優一と会ったって言ったら、半分信じてなかったけどね」
「信じるわけないよ。花音は現実主義者だもん」
優一はそう言って、さっきまで花音がいた椅子に座り、コップの水をぐっと飲み干した。
「これで、信じるんじゃない?」
「え?」
「帰ってみなよ」
「でも」
「いつでも会える。時計さえ回れば。だから安心して戻ってみて。きっと空になったコップに、花音驚くぞー」
そうだ。いつでも会える。ぼくは嬉しくなった。でも戻るということは、また一人、優一をこっちの世界に、時間の狭間ってやつに置いていくようで気が引けた。
「なあ、優一は、ここから抜け出すことはできないのか?」
「抜け出す?」
「ぼくと一緒に、行くことはできないのか」
「どこに?」
「どこにって、現実の世界にだよ」
「……でも、ぼくはそれを、望まない」
「え?」
「戻りたくはないんだ」
優一の表情が明らかに暗くなった。ぼくから目を逸らし、靴のかかとを床にトントンと当てながら、ゆっくりと口を開いた。
「父さんと、ここに来たことがあるって言ったろ? でもね、それ一度きりなんだよ、父さんとご飯を食べたのって。家でもどこでも食べたのはあれ一度きり。父さんは家族を顧みるような人じゃなかったからさ」
「お父さん、医者だろ? 忙しかったんだよ」
「ぼくには分かる。ただ忙しいのか、言い訳かぐらい、見分けがつくよ」
ぼくは言葉に詰まる。
「ぼくはね、いてもいなくても同じなんだ」
「そんな事ない!」
思わず大きな声を出したぼくに驚いたのか、優一は振り向き目を大きく開けた。
「大人になれば分かる。いなくても良い子供なんていない。それに、それに……」
「何?」
「……優一がいなくなって、僕たちがどんなに悲しんだか分かる? どれほど苦しかったか分かる? この十年間、どんな思いで過ごしてきたか」
「……怒らないでよ」
「今、どんな思いでいるのか、分かるかい?」
優一は困った顔をしてうつむいた。無理はない。まだ十歳だ。父親の不在は、きっとあまりにも大きく優一に影響を与えていたのだろう。それに、あの母親……。
「でも、母さんだって、ぼくを嫌ってた」
「嫌ってなんか……」
ぼくは言いかけて、言葉を選べない。優一の母親が優一のことを愛していたのか、ぼくには分からない。教育に熱心だった印象だけが強くある。優一が姿を消したあの日も、こう言った。「帰ってこないと、塾にも行かせられない」そう言って、ぼくの父親をひどく責め立てた。「塾に行かないと、勉強に遅れたら、あなたのせいですからね」ぼくの家の玄関先で言い放ったその言葉に、ぼくも父親も、唖然としたのを覚えている。
「嫌ってなんかないと思うよ……」
優一が姿を消したのは、自らだったのだろうか。
「でもぼくは帰らない。そう決めたから」
頑なに優一は言い張る。
ぼくは何度か優一を説得しようとした。
「じゃあ訊くけど、どうやって戻るって言うんだい?」
その質問に僕は困った。そうだ、どうやって戻るんだ。戻るって、どこに戻るんだ。今の、いや、過去の姿のままの優一が、現実の世界に戻ったらどうなってしまうのか。僕は急に怖くなった。これはやはり、悪い夢なのかもしれない。ふとそんな言葉が頭をよぎる。優一が重い口を開く。
「ねえ、僕はいいんだ。ここには空腹も、幸福もない。僕は何も感じない。恵斗が来てくれたことは嬉しいけど、一人になっても淋しくもないんだ。戻って。恵斗は花音のある世界に戻ってよ」
「花音の……」
「戻ってさ、花音を驚かせて、笑わせてよ。お願い。二人には、笑ってて欲しいんだ」
「優一……」
僕は花音のある世界に、戻ることにした。