花音のいる世界。ぼくにとっての現実世界。優一にはどう映っているのか。どう映っていたのか。
ぼくは時計に視線を向けた。
「また会おう」
「またね」
ぼくは激しい眩暈と共に、現実世界へと戻った。ひどい立ちくらみがする。ぼくは思わずカウンターに手をついた。
「大丈夫ですかお客さん」
店長らしき男が声をかけてきた。
「あ、大丈夫です」
「何か、用でもあるのかい?」
「いえ、時計を見てただけです……」
心配そうに立つ花音の横をすり抜け、僕は席へと戻った。花音は慌てて僕の前に座る。
「ねえ、今のがそう? 今会ってたってこと?」
「うん」
「大丈夫? なんかすごい疲れてるみたい」
「大丈夫だよ。ちょっとキツイけど」
花音がぼくを見つめている。鋭く強い眼差し、昔とちっとも変わっていない。
「で、なんて? なんで時計の中に現れるの?」
「時計の中に現れるんじゃないよ。時間の狭間に出てくるんだ」
「だから何? その狭間っていうの」
「ぼくにもまだ分からないよ」
「本当ならそれって……」
「本当だって。本当に──」
そう言いかけて思い出す。
「そうだ、水」
「水?」
ぼくは花音の前に置かれたコップが空になっていることに気づき、思わず息を呑んだ。ぼくはコップを手に取り、まじまじと見た。水が消えている。優一が飲み干した水が、なくなっている。
「水がなくなってるんだよ」
「ほんとだ」
花音にはなんのことだか分からなかったのだろう。
「すみません、お水ください」
よく通る声でそう言った。
「違うんだ、違うんだよ」
「何が?」
「その水、さっきまでいっぱい入ってたろ?」
「そうだったっけ?」
「そうなんだよ。で、優一が、優一が全部飲み干したんだ!」
「え?」
店員が花音のコップに水を入れる。
「飲んだ記憶ある?」
ぼくは尋ねる。花音は少し顔をこわばらせた。
「そういえば、まだ……」
「だろ? 優一だ。優一なんだ」
「でもちょっと待って。その優一ってさ、子供のままなんだよね」
「そう、そうだよ」
「過去と現在がごっちゃになってるってこと?」
「いや……どうなんだろう。でも時間の狭間で、時間を止めて──」
「言ってることはわかるのよ。でも、それが本当だとしたら、優一は何をしたいわけ? なんで今になって恵斗の前に現れたわけ? っていうか、全部が全部なんで?」
花音が身を乗り出す。ぼくの目をじっと見つめている。
「信じないのか?」
「信じたいよ。でも信じられない」
「でも本当にぼくは会ってるんだから」
花音は少し考えていた。真面目な顔つきになり、落ち着いたトーンで話し始めた。
「本当だとしても、してもだよ? 優一にはもう、会ってほしくないかな」
「なんでだよ」
「今までのことが、無駄になりそうだから。優一が消えて、わたしたちは苦しんで、悩んで、お互いに心を閉ざした。ずっと過去を抱えながら、口も閉ざしたんだよ?」
「そうだけどさ……」
「わたしたち、前に進むしかなかったじゃん。優一を過去に置いて、こうやって生きてきたんじゃん。優一と恵斗が会えたのを、ただ喜べって言われても困るよ」
ぼくは返す言葉がなかった。確かにぼくたちは苦しんだ。あの日、優一が姿を消す直前まで、一緒だった花音とぼくと、ぼくの父親は特にだ。
「あの日、すごく楽しかったじゃない? でもさ、夜中になって町中が騒ぎ始めてさ、わたしたちのとこに警察も来てさ、すごい怖かったんだよね。時間が経つにつれて、自分が悪かったみたいに感じたり、責めたりもしてさ。恵斗もそうだったでしょ? 特にお父さんのことでさ……」
確かにそうだ。ぼくの父親は、一番に疑われた。今でも疑ったままの人はこの町に少なくない。
あの日、忘れもしない10月3日。ぼくの誕生日。十歳の誕生日。
ぼくは父親にお願いして、家で誕生日会をしてもらった。ぼくの家は三軒長屋の端っこで、父親は植木屋をしていたが、決して裕福ではなかった。テレビもゲームも、ぼくが中学に上がるまで家にはなかった。贅沢品は何一つない、質素な暮らしだった。誕生日会は経済的な負担になっただろう。でも「十歳は特別だからな」と父親は、承諾してくれた。
招待したのは、もちろん優一と花音。そして、太一郎と正哉だった。
父親は唐揚げを作ってくれた。スナック菓子にジュース、そしてケーキも用意してくれた。テレビのないぼくの家での娯楽は、もっぱらトランプだった。
太一郎と正哉は、「なんだよゲームないのかよ」と始めは言っていたが、トランプを始めると、負けず嫌いに火がついたようで、「もう一回、もう一回」と勝つまで繰り返した。太一郎も正哉も、野球で鍛えた強い精神があった。花音も負けてはいなかった。生粋の負けず嫌いの花音も、負けたままでは終わらない。延々とトランプをぼくらはし続けた。
七並べ、スピード、神経衰弱を繰り返す。だけど結局、勝つのはいつも優一だった。二時間以上トランプに費やしたあと、優一に降参する、という形でぼくらはトランプを終えた。
ローソクに火をつけ、ぼくは願った。
「みんなといつまでも友達でいられますように」
夕方六時になって、ぼくの父親がみんなを家に送り届けることになった。白いバンに乗り込み、家が近い順に送り届けていった。まずは正哉。続いて太一郎。二人とも「またな」と手を振った。
そしてそのあと、優一の家へと向かった。バンを家の門の前に止めた。優一の家はタイル張りの一軒家で、家というより邸宅という言葉が似合う、そんな大きな家だった。
白い門扉の前で、優一はバンから降りた。
「今日はありがとう」
そうぼくが言うと、優一は少し照れた様子で、
「こちらこそありがとう。またね」
確かにそう言った。
父親がバンを発車させた。花音とぼくは振り返り、家の前に立つ優一に手を振った。優一も、手を振りかえしたところで、バンは角を曲がった。それが、最後の優一の姿だった。
そのあと花音を家に送り、ぼくたちは家へと帰った。
七時を過ぎて、電話が鳴った。優一の母親からだった。
「うちの子がまだ帰らないんですけど、そろそろ帰していただけますか?」
そんな内容だったらしい。電話に出た父親が、「そんなはずはない。家の前まで送り届けましたよ」そう言うのをぼくは聞いた。それからだ。町中が大騒ぎになったのは。
警察はぼくの家に来て、あれこれと訊いていった。花音やぼくも話を訊かれた。次第に疑いの目は、ぼくの父親へと向いていった。
「あの人が何かしたんじゃないの?」
「家の前まで送り届けたって言うけど、どうして家の中に入るところまで、ちゃんと責任を持たなかったのかしら」
「本当は家に監禁してるんじゃないのか」
「同じ年齢の子供がいるって。妬みかしらね、よくできるから優一くん」
いろんな言葉をぼくは聞いた。その全てに傷つき、ぼくは耳を塞ぐようになった。
「気にすんなよ。お前の父ちゃんは悪くねえよ」
太一郎が強い声で慰めてくれた。正哉も側で、うなずいた。始めは心強かったものの、だんだんとぼくは、それさえも受け止めきれなくなっていった。
だって、親友が消えたんだから。
ぼくは優一に会いたい。その思いが、優一をこの目に映し出しているのかもしれない。ぼくはコップの水をじっと見つめた。