目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第9話 遠くて近い

「大丈夫? 恵斗」


花音がぼくの顔を覗き込んだ。


「なんか、ぼくの勘違いかもしれないね。優一が、ここにいるなんて、馬鹿げたこと言ったよね、ぼく」

「いや、わたしはただ恵斗のことが心配でさ」

「うん、いいんだ。忘れて。ね、忘れてよ」


ぼくは作り笑いをして、コップの水を飲み干した。でも内心では、くっきりと、はっきりと見た優一のことを忘れることなどできるはずがなかった。

誰にも信じてもらえなくてもいい。ぼくは一人でも優一の存在を信じるし、また会いに行くと心に誓った。

重たい空気が流れていた。少し疲れたぼくは、チャーハンを少しずつ口に運んだ。


「ねえ、同窓会、出席で返事出してくれるよね?」

「え?」

「わたしたちには、向き合わなきゃいけない過去があると思うんだ。太一郎や正哉も、きっと来てくれる、そんな気がしてさ」


ぼくも同じことを考えていた。太一郎も正哉も、来るような気がした。あれから十年だ。すっかり大人になったに違いない。短い髪を、ツンツンと立てていた太一郎。ガッチリとした体格でよく日に焼けていた。正哉も太一郎と同じ野球クラブに入っていたけど、長い前髪を垂らし、白く涼しい顔をしていた。二人とも、まだ大学で野球をやっていることだろう。中学の卒業文集に書かれた夢は、二人とも野球選手だった。


「太一郎と正哉はこの町出たってね」


花音は寂しそうな顔で言った。


「そうらしいね」

「羨ましいな。二人には夢中になれるものがあって。きっとさ、優一のことがあって苦しい時だってさ、打ち込むものがあるって、救いだったと思うんだよね。わたしは絵を描くことを、放棄しちゃったから」

「そっか」

「恵斗はさ、やっぱり文学だったわけ?」

「何が?」

「だから、打ち込めること」

「そんなんじゃないよ。ぼくは本に逃げてただけだよ。だけどそれさえも、うまく行ってなかった気がする。どんな小説を読んでも、心が動くことはなかったからさ」

「そっか」


最後のギョーザを、花音は口に放り込んだ。


「なんなんだろうね、人生ってさ」


ぼくは返答に困る。人生を語るほど真剣に生きてはいないし、なんとなく、ただなんとなく時間の流れに身を任せてきただけだ。安全な選択をして、無難な道を歩いてきた。そうしなければ、壊れてしまいそうだったからだ。大学でもぼくは誰かと深く関わって、傷ついたり傷つけたりする可能性から逃げた。与えられた課題をこなし、ルーティンのように毎日大学とバイトに通う。そんなぼくが、人生とは、なんて、語るには早すぎる。ぼくたちの会話は、途切れた。

しばらくして、ごくりとギョーザを飲み込んだ花音が口を開いた。


「じゃ、出ますか」


ぼくたちはきっちりと割り勘で支払いを済ませた。暖簾をくぐり、外に出た。少しさっきより肌寒くなっていた。


「そうだ。お父さんは元気にしてるの?」


花音が訊く。


「ああ、まあ、元気だよ」


低い声でぼくは答えた。


「お父さんにも、会いたいな。よろしく言っといてよね」

「うん」


僕たちは駅へと向かって歩いた。


「今、どこに住んでるの?」

「わたし? わたし、駅の向こうだよ? すぐ近く。すぐ近くにいるよ」

「そうなんだ」

「ほんの数分歩けば会えるところに住んでるのにさ、全然会わなかったね」

「昨日出会えたのが、奇跡みたいに感じるの、なんでだろう」

「奇跡なんだよきっと。ほんとに奇跡なんだよ、巡り合わせって」

「そうかもしれないね」


ぼくの歩幅に合わせて、花音が歩いている。わかっていながら、ぼくはスピードを落とすことができなかった。ぼくたちは言葉を選びながら、ぎこちない会話をして駅へと向かった。


「じゃあね」


花音の言葉が、地面に落ちる。


「じゃあ」


ぼくの言葉は、宙に消える。ぼくたちは、また会える。だから今日は、これでいい。そう自分に言い聞かせた。


ぼくたちは駅前のロータリーで別れた。駅の向こう側に花音が消えていく。連絡先も知っているし、また会えるのは分かっているのに、寂しい気持ちになった。近くにいるのに、とてつもなく遠いところにいる、そんな気がした。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?