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第10話 幻影

ぼくは花音を笑顔にすることはできなかった。


「優一も勝手なこと言うよな、ぼくにそんなことできるなら、とっくにやってるさ。だいだいぼくにとって花音は大切な人ではあるけど、花音にとってのぼくは、そうではない。そんなこと、考えればわかるじゃないか」


ぼくは家へと帰りながら、ブツブツと唱えた。


「花音の言うように、きっとあれはぼくが生み出した幻影に違いない。あれから十年経って、ぼくの誕生日が近づいていて、きっと自分でも気付かないうちに、意識していたのだろう」


ぼくは自分を納得させるような答えを出した。


「幻影、ただの幻影なんだ」


自宅の扉をガラリと開け、靴を脱ぎ、自分の部屋へと向かう途中、背後から父親の声がした。


「おかえり」


ぼくは振り向きかけてやめる。


「ただいま」


精一杯の一声をぼくは絞り出した。

最近、父親の顔をまともに見ていない気がする。何があったのか、それは言うまでもなく、優一のことがあったからだ。父親といると、ぼくまで非難されてしまう。小学生だったぼくには、なす術もなく、父と距離を取ることを選んでしまった。そしてそのまま今に至るのだ。「無視してごめん」「避けてごめん」その一言が、いまだに言えなかった。長いトンネルの中で、ぼくは立ち止まり続けているのだ。

三歳で母親を亡くして、物心着く頃には、家族は父一人。男手一つでぼくを育ててくれた父親。ぼくにとって、その存在はあまりにも大きすぎるのだ。

ぼくは自分の部屋へ入り、開けたままだった雨戸を閉めた。真っ暗な部屋に、デジタル時計の数字が緑色に光る。ぼくは部屋の電気をつけ、シャツを脱いだ。

ダイニングテーブルでビールを飲みながらテレビを観る父親の横を通り、ぼくは風呂場へと向かった。脱衣所のドアノブに手をかけて、止まる。何か、ぼくは伝えなければいけないことがあるのではないか。このままでいいのだろうか。疑問が頭をよぎった。ぼくは考えるよりも先に、言わなければならないことがある。


「あのさ」

「ん?」


父がテレビから目を離す。


「あの……花音に会ったよ」

「花音?」

「あ、覚えてないかな、子供の頃よく遊んで、うちにも時々──」

「覚えてるよもちろん。そうか、あの花音ちゃんか」

「うん」

「元気だったか?」

「まあね。一緒にご飯食べた」

「そうか。良かったよ、元気なら」


父はよく焼けた顔をしわくちゃにして笑った。


「……あ、俺、風呂」

「ああ、入っといで」


ぼくは逃げるように脱衣所に入った。父親とまともに話したのはいつぶりだろう。いつも声をかけてくれる父親に適当にしか返さなかったことを、ぼくはひどく悔いた。

チノパンのポケットからハンカチを取り出し、洗濯機の中へ放り込む。反対のポケットには、ティッシュと、花音がくれたキャラメルが入っていた。

ぼくはキャラメルを頬張らながら、湯船に浸かった。色々と、いや、優一のことを考えた。ぼくが優一の幻影を生み出し、見ているだけだとしても、この十年の中で、一番意義があることだったのではないか。優一が時間を止めその狭間にいると言うのなら、ぼくは置いてきたものを、取り戻さなければならないのではないか。


──ぼくは時計が読めない。優一は時間を止めた──


時間はぼくたちの間には、存在しないのかもしれない。幻影は、現実よりも、近くにいるのだ。

風呂から上がり部屋へ戻ると、デジタル時計は11時23分になっていた。緑の光を見ながら、ぼくはやはり、優一に会いたいと思った。またあの幻影に会いたいと思った。

デジタル時計が11時24分へと変わる。時間はこうして流れていく。優一を、1秒、また1秒、失っていくような気がした。

ぼくは腕時計があったことを思い出した。十歳の誕生日に、祖父から送ってもらったものだ。もらってすぐ、箱から出すこともせず押し入れの中に入れた記憶がある。

ぼくは押し入れを開け、ダンボール箱を引っ張り出した。確かこの中だ。電話口で祖父にお礼を言いながら、本当は泣きそうだったぼく。時計を読めないことが悔しくて、恥ずかしくて、結局いまだに祖父にはそのことを話せてはいない。

ダンボール箱の中に、小さな黒い箱を見つけた。箱には銀色で時計メーカーのロゴが遠慮がちに付いている。今考えると、十歳の子供に贈るには、値段のはる時計だったに違いない。

ぼくは黒い箱を開け時計を取り出した。銀色のフレーム、銀色のリストバンド、銀色の文字盤、ずっしりと重たい。ぼくは文字盤の時計の針を見た。今何時を指しているのか、よく分からない。でも数字が歪んで見えるだけで、時計の針は回り始めなかった。よく見ると、時計の針は止まっている。動いている時計でないと、あの眩暈は起きないのかもしれない。ぼくのために、父親は家中の時計をデジタルに統一してくれている。アナログは、この一本だけだ。


「明日、電池を交換しよう」


そしてあの幻影に、会いに行こう。そう決めた。

スマートフォンがググっと音を立てる。ぼくはすぐさまスマートフォンを手に取る。花音からだ。


(今日はありがとう。チャーハン、美味しかったね)


ぼくはすぐに返す。


(こちらこそ、ありがとう)


花音にこれ以上話せない。ぼくはスマートフォンを置き、布団に潜り込んだ。長い一日だった。

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