目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話 あの日のこと

朝、いつもより早く目が覚めた。強い雨のせいだ。雨粒が雨戸を叩いている。風もあるらしい。ガタガタとうるさく鳴っている。顔を洗い歯を磨き、身支度を済ませて、台所へ行くと、

もう仕事に出ていた父親からの置き手紙があった。


(恵斗へ。もしまた花音ちゃんと会うのなら、俺からよろしくと伝えてくれ。それから、ごめんと伝えてくれ)


気持ちは分からないでもない。優一のことで、迷惑をかけたと言いたいのだろう。実際にぼくは、そのことで父親にひどい態度をとってきた。ごめんという一言は、ぼくが言わせたようなものだ。

優一に会いたいという気持ちは、会わなければならない、に変わっていた。

ぼくは何がなんでも、優一にあって、訊かなければいけないことがある。

──あの日、何があったの?──

それだけは訊いておかなければならないのだ。

ぼくは腕時計を裏返し、フタの隙間にマイナスドライバーをねじ込み、ぐいと持ち上げてフタを開けた。プラスチックのカバーをピンセットで持ち上げると、中に電池が入っているのが見えた。ぼくはそれを取り出し、型番をメモした。そして家電量販店へと向かい、家を出た。


電池はすぐに見つかった。ぼくはそれを手に大学へと行き、講義を受けた。教授の話など頭に入らなかった。ぼくは教室の片隅で、腕時計をカバンから取り出した。待っていられない。あの日のことを知りたい。その思いを抑えることはできなかった。

ぼくは腕時計のフタを開け、新しい電池を入れた。フタを戻し、ぼくは腕時計を耳に当てた。

カチカチカチと秒針が動く音が聞こえた。

恐る恐る、腕時計をひっくり返す。文字盤が視界に入る。ぼくはもう、目を離せなくなった。

すぐに数字は歪み始め、時計の針がぐるぐると回り始めた。ひどい眩暈がして目を閉じる。そして目を開ける。生徒も教授も消えた。

目の前に、優一がいた。


「おーっ、ここどこだよ」


優一がメガネをあげながら言う。


「大学の教室。ロシア語の授業の途中だ」

「恵斗サボってるな、さては」

「まあ、そんなとこ」


優一が笑った。優一は教室内をぐるりと見回し、教壇へと向かった。咳払いをひとつしてみせた。そして黒板を叩いた。


「諸君、よく聞きたまえ」


どうやら教授になりきっているらしい。


「言葉はすなわち、モーゼの杖である」


ぼくは首を傾げた。


「どういう意味?」

「世界を真っ二つに分けてしまうってことだよ。言葉なんてなければ、引き裂かれることもない。そう思わないか?」


大人びたその言葉にぼくはドキッとした。


「言葉がなければ伝えられない」

「まあ、そうだけど」

「ところでさ、ところでだよ」


ぼくは核心へと入る。


「あの日、何があったのか、教えてくれないか?」

「あの日?」

「ぼくの誕生日。優一を送って行ったろ?」

「ああ。あの日か」


優一は教壇を下りる。ぼくの方に向かって歩きながら、ゆっくりと口を開いた。


「それが……覚えてないんだ」

「なんでもいい、なんでもいいから思い出してくれ」


ぼくは懇願する。


「優一が姿を消した。そのことでぼくはいまだに心の整理がつかない。頼む。なんでもいいんだ」

「うーん……。そうだな、ぼくはただ、願ったんだ。強く、強く願った」

「何を?」

「このまま時が止まればいいって」

「そう言うことじゃなくてさ……。何が起きたか、優一はぼくに手を振った後、ぼくの親父の車を見送った後、何をしたのか」


優一はうつむく。


「思い出したくない」

「頼む。思い出してくれ」

「それを訊くためだけにぼくに会いにきたのかい? 会うことそのものが目的じゃないのかい?」


優一が寂しそうな目で言った。


「会いたくてたまらなかったよ。でもね、ぼくは、ぼくたちは、知らなければならない。でないといつまでも、時間が止まったまま、前に進むことができないんだよ」


少し困った顔をして、優一は口を尖らせる。


「……確信はないよ?」

「いい。それでいいから」

「うん……」


優一は、ぼくの前に座る。


「あの日、ぼくは、恵斗たちの乗る白いバンを見送った」

「うん」

「バンが角を曲がって見えなくなった。ぼくはあたりが急に静かになったことに気がついて、怖くなったよ。あたりは暗くてさ、隣の家からカレーの匂いがしてきて、それで、ぼくは家に入ろうとドアノブを握ったんだ。でもね、そこから先が、はっきりとしない。強い光、フラッシュが炊かれたみたいな強い光が襲ってくる。ぼく、怖くて、怖くて!」


優一がうつむき、目をつぶる。


「何があったんだよ」

「多分……多分……」


優一はごくりと唾を飲み込んだ。そしてぼくは信じられない言葉を耳にする。


「多分、殺された……」 

「え?」


ぼくの背中にぞくっと冷たいものが走る。優一がふざけているようには見えない。優一の目は、じっと机を見つめているようで、どこか遠くを見ているようで、虚ろだった。


「殺されたって、誰にだよ」

「そりゃあ、母さんか、父さんだろうね」

「どうして?」

「ぼくを嫌ってたから」


返す言葉が見つからない。


「だからぼくは、ぼくが死んでしまう前に、ぼくを時間の狭間に閉じ込めたんだ。強く願ったんだよ。このまま時間が止まるようにって」

「じゃあ優一は……」

「ぼくは、どこにもいない」


何を言っているんだろう。ぼくはなんと言ってあげるべきだろう。(優一が殺された? でも時間の狭間で生きている? 繋がらない)ぼくは目の前の優一が恐ろしくなった。ぼくはやはり幻影を見ているに違いない。


「ぼくの死体は出たのかい?」

「え……」

「出てないだろう。ぼくはぼくを現実から消したんだから」


こんなはずじゃなかった。足取りがつかめればとは思っていた。もちろん万が一も考えてはいた。だけど、優一の話をどう受け止め咀嚼すればいいのか分からなかった。ぼくの頭がおかしくなったのだ。きっとそうだ。一番聞きたくなかったことを聞かされて、いや、ぼく自身が優一に言わせてしまっていることが、ぼくを狂わせているんだ。


「ねえ恵斗、みんなはどうしてるのかな。元気なのかな」

「元気だと思う」

「思う?」

「花音にしか会ってないから分からないよ」

「なんで会わないのさ」

「それは、それは!」


君のせいじゃないか。そう言いかけてやめる。


「会えるのに会わないなんて、そんなのおかしいよ。友達でしょ?」

「友達ってさ、永遠じゃないんだよ……」


ぼくの言い方は、優一にとって、きっと冷たく聞こえたことだろう。


「そっか……」


優一は、グッと拳を握った。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?