黒板に残された優一の手形。それに合わせたぼくの手が、小さく震えていた。ぼくはトイレに行き、顔を洗った。何もかもが流されて消えればいいと思った。だけどそれは消えるどころか、より一層ぼくの中で大きく膨らんでいく。それはぼくの胸を締め付ける。それはぼくの頭の中で響き渡る。そう、優一が、優一の存在が、ぼくの心に引っかかって取れないのだ。
ぼくはたまらず、花音に連絡を取った。
(花音。嫌かもしれないけど、信じないかもしれないけど、ぼくはまた優一と会った。ぼくの中から、優一が消えない。助けてほしい)
ぼくがLINEを送って間もなく、返事が来た。
(恵斗。ほんとは気になってた。ごめん、ちゃんと向き合わないで。一人で抱えさせたよね)
その言葉に鼻の奥がツンとなった。次々と言葉が重ねられていく。
(恵斗、優一なんか言ったの? 何があったの?)
(優一が、優一の死体を見つけてほしいって言うんだ。だからぼく、優一を置いて、逃げてきてしまった)
(死体だなんで、穏やかじゃないね。でも、もしそれが本当に優一の望みなら、わたしは恵斗と一緒に向き合うよ)
(また会えるかな)
(今日、会おう)
(わかった。ありがとう。また連絡するよ)
ぼくの心が落ち着き始めた。花音がいてくれてよかった。ぼくはそう思った。
あの時から十年、何かがぼくたちを引き寄せているのだとしたら、それは優一に違いない。ぼくは冷静に、何が起きているのか、頭の中を整理しようと思った。
あの日、ぼくの父親のバンを降りた優一は、家へと入って行った。そしてそこで何かがあって、傷ついた優一は時間の狭間に逃げ込んだ。自らの時間を止めたとも言える。そして現実世界から、忽然と優一は姿を消した。
ぼくは不思議に思った。身体まで、人の意識で消せるものなのだろうか。どれだけ優一が傷つき、それを願ったとしても、肉体まで消すのは、無理なのではないか。ぼくは言わば優一の魂と触れ合っているだけで、実体を伴わないと考える方が自然なのではないか。ただ、コップの水が消えたことや、黒板についた手形をどう説明するのか。それらも優一の意識ひとつで為せるものなのだろうか。でもだとしたら、やはり優一は殺されたのだろうか。死体がどこかにあるのだろうか。ぼくは、ぼくたちは、優一の死体を見つけなければいけないのだろうか。
ぼくは他の授業には出席しなかった。勉強はあとででもできる。でも優一との時間には、限りがあるような気がしてならない。いくら優一が時間の狭間にいるとしても、時間を止めたと言っても、このまま放っておくわけにはいかない。だってぼくの時間は、ぼくの時間こそ、止まっていたのだから。
夕方になって、仕事を終えた花音から連絡が入った。
(仕事早めに切り上げた。どこにでもいくよ)
(またあの公園でいい?)
(わかった。すぐ行く)
ぼくは早速、腕時計をポケットに入れ、公園へと向かった。公園までは家から15分ほどかかる。花音はティッシュを配っていたあの交差点からだから、電車に乗って13分、歩いて8分と言ったところか。
ぼくは花音に会えることが、心から嬉しいと思った。ひょっとしたら、ひょっとしたらだけど、優一もぼくに会うことを、こんな風に嬉しいと思ってくれたのかもしれない。
ぼくは公園に着くと、案の定、花音はまだ来ていなかった。ぼくは、花音が来るまでは、時計は見まいと決めていた。同じ時間を共有したい。その想いが強かった。たとえ花音は優一と会えないとしても。
何度目かのくしゃみのあと、ティッシュで鼻を噛んでいると、花音がひょっこりと現れた。
「花音」
「待ったよね。髭が伸びてるもん」
「え?」
ぼくは顎に手をやる。そういえばこのやりとり、つい最近したな。ぼくは思わず声を出して笑った。花音がぼくをリラックスさせようとしているに違いない。その優しさが、何よりもありがたかった。ぼくは優一とのことを、花音に話して聞かせた。もしかしたら早口でまくし立てていたかもしれない。でもぼくははっきりと記憶に残るくらい、花音の目をじっと見ていた。花音もぼくの目から視線を外さなかった。ひとしきり話したところで、ぼくは大きく息を吸った。
「なるほどね。うーん。優一らしいと言えばらしいけど。実際に出来ることなのかな」
「わからない」
「でもね、この世の全てが現象に過ぎないって言うでしょ? わたしたちは蜃気楼を見てるようなものだって。だからさ、恵斗が見てるものは、ある意味現実で、ある意味現象に過ぎなくて、でもそれが恵斗に見えているってことは事実なんだよ」
難しい話になるのか、とぼくはちょっと心配になる。
「うん……」
「だからさ、わたしやっぱり、信じるよ、恵斗のこと」
ぼくはあからさまに表情を明るくしたのだろう。花音が笑って言う。
「そんなに喜ばないでよ。信じるってだけなんだから」
「ああ、それでもいいよ。話せる人が、ぼくには必要だから」
「一人じゃないよ、恵斗はさ」
ぼくは一人じゃない。そのことだけで、今は十分だった。