家に帰り着いて、ぼくは台所でビールを飲む父親に訊いた。
「親父、今どう感じてる?」
「ん?」
「だから、今だよ。ぼくはさ、何もかもがぼんやりしてるんだ。何をしても、実感が湧かない感じっていうか」
「それは、優一君のことがはっきりしないからか?」
「多分。いや、そのせいにしちゃいけないとは思ってる。でもぼくは、親父に対しても、ひどい態度を……」
ぼくは口籠る。謝りたい。こんなぼくでも信じてくれる父親に、謝りたい。
「ひどいなんて思っちゃいないよ。逆に優一君のことを忘れて、はしゃぐような奴なら、俺はぶっ飛ばしたと思うけどな」
父親はそう言って笑ってみせた。ぼくは、長い間あった胸のつかえが少し取れた気がした。
「お前も飲むか?」
「ぼくまだ二十歳になってない」
「明後日だろうが」
「覚えてたの?」
「うろ覚えだけど。ハハ」
父親の顔がくしゃっと縮んだ。随分と皺が増えた。日に焼けているせいかその皺の深さも気になった。
ぼくは、花音と連絡をとった。花音が次の土曜日はどうかと提案してきた。ぼくは夜からバイトがあるが、それまでなら大丈夫だと返事をした。ぼくたちは次の土曜日、四日後、優一の母親の家に行く。そう決めた。
(あ、そうだ)
花音が少し時間を置いてLINEしてきた。
(次の土曜日、もう恵斗も二十歳になってるね。ちょっと早いけど、おめでとう)
ぼくは返事を返したいのに、複雑な気持ちになっていた。
もし優一が殺されているのだとしたら、ぼくの誕生日が、すなわち優一の命日になるということだからだ。それが分かった今、ぼくはどう返せばいいのだろう。
迷っていると花音が追記してきた。
(いいと思うんだ、祝っても)
花音の言葉がぼくは嬉しかった。
(ありがとう)
心からの言葉だった。伝わるといいのだけれど……。
ぼくはベッドに入る。ぼくの周りの人の顔が浮かぶ。あたたかい気持ちになる。泣きそうになる。ぼくが人と繋がっている。奇跡みたいだと思った。
ただ、それと同時に考えてしまうのは、優一の孤独だった。自らを時間の狭間に閉じ込めた、まだ十歳の少年の痛みは、どんなものだったのだろう。ぼくは彼の心を掬い上げ、救わなければならない、その責任があるのだと思った。
時計は11時55分と光っていた。今日という一日が終わろうとしていた。ぼくは今日が終わる前に、もう一度優一に会いたいと思った。
ぼくはベッドから起き出し、机の上に文字盤を下にして置いておいた腕時計を、ひっくり返した。文字盤がよく見えるように、腕時計をデジタル時計の光に当てた。
ぐるぐると針が回り始めた。数字が歪みだし目眩が起きた。そして目を閉じ、再び目を開けると、そこには優一がいた。
「また来たの?」
と、面倒くさそうに優一が言った。
「ちょっと、会いたくなった」
「大人のくせに、さびしんぼうなんだな」
「関係ないよ。大人の方がさびしさには弱い生き物なんだから」
「ハハッ、恵斗はやっぱり変わってない」
変わっていないと、よく言われる。子供の頃から成長していないのは、自覚がある。食べ物もよくこぼすし、猫背でうつむいているのも、わかっている。靴のかかとを踏む癖も治らないし、打たれ弱い。
「でもいいところだよ、変わってないとこも」
「え?」
子供に慰められている。ぼくはなんだかおかしくなってきて、もう笑うしかなかった。
「何がおかしいんだよ。ぼくのこと馬鹿にしてるのか?」
「してないよ。でも優一、ぼくより大人だなって思ってさ」
「ぼくは子供だ。でなければ、ぼくはこんなとこに逃げ込んだりしないよ」
「そうだな……」
どうしてだろう。ぼくが誰かと話す時、その誰かの方がいつも気を遣っている気がする。ぼくは時計が読めないだけじゃない。空気を読むのも苦手なのかもしれない。
ぼくはそれでも、優一といることを、この時間を無駄にしたくないと思っていた。一緒に過ごすことができるのは、この場所しかないのだから。でも、二十歳になろうとしているぼくと、十歳の優一が一緒にできることとはなんだろう。そう思っていると、優一がハッと棚に置いてあったトランプに気付いた。
「あ、トランプだ。さっきやったね」
「さっき?」
「ほら、さっき恵斗の誕生日でさ」
「ああ」
(優一にとっては、さっきのことなんだ)改めて時間の不思議を感じる。
「ねえ、神経衰弱しない?」
ぼくは「いいよ」と答え、さっそくあぐらをかいて座った。
優一はトランプを床にばら撒いた。
「まあ、ぼくが勝つけどね」
得意げに優一が言う。
「でも相手は十歳のぼくじゃないんだぞ? ぼくだって、優一に、今なら勝てると思うんだ」
ぼくがそう言っても、優一は我関せずといった感じでぼくの言葉を受け流した。
「恵斗からする? それともぼくから行こうか?」
「ぼくからでいいよ」
当たるはずもないのに、先攻を選ぶ馬鹿なぼく。ぼくの引いたカードは、優一のヒントになるだけだろう。でも、いざ始まると、思ったより優一が強くない。ぼくは優一がめくったカードを頼りに、次々とカードを当てていった。結局、ぼくが勝ってしまった。優一は初めての屈辱に顔を歪めた。
「もう一回!」
何度か繰り返したが、結果は同じだった。ぼくは手加減したつもりだが、負けることは意外と難しい。大人になって、初めてそのことを知った。
優一は、心底がっかりした様子で、ぼくは慰めることができないくらいだった。今にも泣き出しそうな優一に、「ただのゲームだからさ」と声をかけた。すると優一はこう言った。
「負けることは許されないんだ」
「運の良し悪しだよ」
「運も実力のうちって言うじゃないか」
「トランプの運はただの運だ。ねえ、ぼくが大人気なかった、ごめんね」
優一の目に光るものがあった。子供の頃は無敵の強さを誇った優一にとっては、本当に屈辱だったのだろう。
「もう、ぼくはダメだ……」
優一は声をあげて泣き始めた。
「母さんも言ってたよ。ぼくは大したことないって。父さんはぼくのことを考えることすらなかった。でもぼくは認められたくて頑張ってさ、勉強だってトランプだって、なんだって頑張ってきたのに……もうダメだ……」
ぼくは言葉が出なかった。その代わり、大きくなったこの体で、長くなったこの腕で、優一を、しっかりと抱きしめた。
優一はぼくの胸に顔を埋めて泣いた。しばらく泣いてぼくのTシャツが涙で濡れた。その時、その涙の冷たさに、ぼくは気付いてしまった。
──冷たい。優一が冷たい──
ぼくが優一の髪を撫でているからだろうか。髪の毛だから温度を感じないのだろうか。でも、違う。その地肌からも、体温は感じられなかった。
「優一……」
ぼくは急に寂しくなって、優一が泣き止もうとしているのに、あろうことか泣き始めてしまった。優一は、不思議そうな顔をして、ぼくを見上げた。