1-1:「お風呂はめんどくさい」
冬の冷え込みが一層厳しさを増すある日。王城では各部屋に暖炉の火が灯され、ぬくもりを求める人々の息が白く浮かぶほどの寒さだった。そんな中、おゆきは王城の特等寝室にて、ふかふかの毛布にくるまり、ぬくぬくとした顔でうたた寝をしていた。
部屋の扉が控えめにノックされる。
「おゆき様、お風呂の準備が整いました」
入ってきたのは、彼女付きのメイドの一人であるリーナだった。銀の盆を抱え、丁寧な口調で声をかけるが、おゆきは目を薄く開けただけで、特に動く気配はない。
「……お風呂?」
しばらくぼんやりと天井を見つめていたおゆきは、やがて面倒くさそうにため息を吐き出した。
「めんどくさいから……嫌い」
その一言に、リーナは一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「お風呂が、嫌い……ですか?」
「ええ。ぬくぬくの布団から出るのもめんどくさいし、濡れるのも面倒だし……」
そう言って、おゆきはもう一度毛布に潜り込もうとした。しかし、リーナはにこやかに笑いながら説得を試みる。
「でも、お風呂は気持ちいいですよ?身体も温まりますし、疲れも取れますし、なによりぽかぽかして眠りが深くなります」
「ぽかぽか……?」
一瞬だけおゆきの耳がぴくりと動いたが、すぐにまたもぞもぞと毛布の中に引っ込んだ。
「……だって、私、氷みたいなものだから……お風呂に入ったら、体が溶けるかもしれないし」
その言葉に、リーナは思わず吹き出しそうになりながらも、慌てて表情を引き締めた。
「溶けるなんて、そんなわけありませんよ。おゆき様は確かに“雪女”の勇者様ですが、お風呂に入ったくらいで溶けてしまうような方ではありません」
「本当にぃ?」
おゆきは少しだけ疑わしげな目を向けた。
「ええ。人間のお嬢様だってお風呂に入ってますし、おゆき様もきっと大丈夫です。もし何かあっても、私が責任を取ります」
「うーん……」
しばし沈黙のあと、おゆきは諦めたように毛布をずらし、ゆっくりと身体を起こした。そして、重い腰を上げながら、まるで戦場へ赴くかのように呟いた。
「じゃあ……短い間だけど……今までお世話になったね……」
「冗談やめてください!」
リーナは慌てて声を上げたが、おゆきはどこか遠くを見つめるようにしてため息をついた。
「溶けたら……溶けたで、それもまた運命よね……」
「ですから、溶けませんって!」
そんな奇妙なやりとりをしながらも、リーナに背中を押される形で、おゆきはようやく浴室へと向かうこととなった。その後ろ姿を見送りながら、リーナは小さく首を傾げた。
「本当に……変わった方ですね」
そして心の中でひとつだけ願う。
(どうか、せめて湯船に入るまではたどり着いてくれますように……)
1-2:「いなくなったおゆき」
おゆきがしぶしぶ浴室へ向かってから、すでにかなりの時間が経過していた。リーナは廊下を行き来しながら、ふと不安げに時計に目をやる。
「……もうそろそろ、出てこられてもいい頃だけど……」
さすがに何かあったのではないかと気になり始めたリーナは、タオルと替えの寝間着を抱えて浴室へ向かった。木の扉の前に立つと、控えめにノックをする。
「おゆき様?ご気分は、いかがですか?」
……返事はない。少し間をおいてもう一度叩くが、やはり何の応答もない。
「……まさか」
血の気が引くのを感じながら、リーナは扉の取っ手に手をかけ、恐る恐る開けた。
脱衣所には誰の姿もなく、静けさが支配していた。急いで浴室の引き戸を開けて中を確認する。湯気が立ち込める浴場の中、湯船はまだほんのりと湯を湛えていたが――どこにも、おゆきの姿はない。
「……えっ、うそ。まさか……本当に、溶けたの……?」
リーナは目を見開き、ほとんど蒼白になっていた。おゆきの冗談だと思っていた「お風呂で溶けるかも」が、今になって現実味を帯びてきたような気がした。
「おゆき様……っ!?」
ほとんど叫ぶような声で名を呼びながら、更衣室を駆け回る。タオル置き場、洗面台の裏、ロッカーの隙間――すべて見て回るが、やはりどこにも姿はない。焦燥と罪悪感が胸に押し寄せる。
(私のせいで……無理にお風呂をすすめたから……!)
絶望しかけたそのとき、ふと更衣室の角にある座布団の上に、なにか丸まったものが目に入った。
「……え?」
ゆっくりと近づいてみると、それは――毛布にくるまって丸まる、おゆき本人だった。
「……ちょ、えええぇ!?」
リーナは思わず声を上げてしまった。慌てて駆け寄ると、おゆきがふわりと目を開け、ぼんやりとした表情で呟いた。
「……あー……寝てた……」
「いや寝てた、じゃありませんよっ!! どこ行ったかと思って、溶けたかと思って、本気で心配したんですからね!?」
珍しく感情的になるリーナに対して、おゆきはあくびをしながら目を擦り、「だって……脱ぐのも入るのも、なんかめんどくさくなって……」と気だるそうに言う。
リーナは目頭を押さえ、「本当に、気ままなんだから……」と苦笑を漏らし、しかし安堵の息をついた。
「さあ、今度こそ本当に入りましょう? もうお湯は適温にしてありますし、体も温まって気持ちいいですよ」
「んー……じゃあ、入ってみるだけ入ってみる。すぐ出るかもだけど」
重い腰を上げるおゆきの背を押しつつ、リーナはようやくこの珍騒動にひとまずの決着がついたことを知る。
「もう、心配させないでくださいね」
おゆきは湯気の向こうへとぼんやりした足取りで進みながら、「でもやっぱり……湯気の中にいると……少しずつ溶けてる気がする……」などと、まだ言っていた。
リーナはその背中に「溶けてません!」と声をかけながら、しみじみと思った。
(やっぱりこの方、ただの“伝説の勇者”じゃないわ……)
---
承知しました。以下は番外編「お風呂はめんどくさい」1-3シーン:ぽかぽか風呂とおゆきのぼやきを1000文字以上でお届けします。
1-3:「ぽかぽか風呂とおゆきのぼやき」
湯気が立ち込める浴室は、ほんのりとした柚子の香りに包まれていた。王城の風呂は広く、天井が高いため蒸気がこもりすぎることもなく、どこまでも静かで心地よい空間だ。浴槽にはすでにちょうど良い湯加減の湯が張られており、湯面には柚子がいくつか浮かんでいる。
「……うわ、広っ……」
おゆきは、ぐいっと伸びをしながら湯の縁に腰を下ろし、少しだけ足先を湯に浸して様子をうかがう。
「うーん……ちょっと熱いかも……でも、まあ……これくらいなら……」
しばし躊躇したのち、意を決して肩までどっぷりと浸かる。
「――はあぁぁ……」
思わず漏れる、至福の吐息。
おゆきの白い肌にほんのりと赤みがさし、蒸気が頬を柔らかく包み込む。湯が体をゆっくりと包み込み、冷えた身体を芯から解きほぐしていく。
「……これ、意外と……いいかも……」
独り言のように呟きながら、ぽかぽかとした温かさにうっとりするおゆき。時折ゆるりと手足を動かし、浮かぶ柚子を手にとっては鼻に近づけて香りを楽しむ。
「なんか……柚子って、癒されるよね……あの黄色い丸いのがぷかぷかしてるの、可愛いし……」
しばらく無言で湯に揺られながら、おゆきはぽつりとぼやいた。
「でも、入るまでがめんどくさいのよ……」
先ほどまでのぐったりした態度を思い返しながら、湯の中で肩をすくめる。
「誘われなかったら、たぶん一生入らなかったと思う」
その時、浴室の扉の外からリーナの声が響いた。
「おゆき様、お湯加減はいかがですか?」
「うーん、悪くない。むしろ……もうちょっとで眠りそう……」
「溺れないでくださいね!」
「起きてたらいいけどね……」
そんな危なげなやりとりを経て、おゆきは浴槽の縁に頭を預けるようにもたれかかり、ぽつりと呟いた。
「こんなに気持ちいいなら、毎日でも入ってもいいかも……いや、やっぱり……入るまでがめんどくさいわ」
それでも、ほんの少しだけ機嫌が良さそうなのは、湯の魔力か、それとも柚子の香りのせいだろうか。
「どうせ入るなら、お風呂が勝手に動いてこっちに来てくれたらいいのに……布団の中でお風呂に入れる魔法とか、誰か開発してないの?」
空に向かってそう不満を漏らすが、もちろん返事はない。
しかし、その様子を見ていたリーナは、小さく笑って呟いた。
「ほんとに……この方、やっぱり伝説の勇者なんて呼ぶにはゆるすぎます……」
そして浴室の外では、再び「伝説のぽかぽか勇者」の珍騒動が、メイドたちの間で語り草となるのであった。
1-4:「まさかのお風呂好き宣言!?」
入浴からしばらく経ち、おゆきはようやく湯船から上がり、ふかふかのタオルに包まれて脱衣所に戻ってきた。湯気でしっとりとした髪を、リーナが丁寧にタオルで拭いてくれている。
「お風呂、気に入っていただけましたか?」とリーナが尋ねると、おゆきはぼんやりした顔のまま、「うーん……まあまあ?」と曖昧な返事をした。
だが、その顔は明らかに満足げで、頬はほんのり赤らみ、肌もつややかに潤っている。リーナは内心で(絶対に気に入ってる顔だわ)と確信した。
「ほら、ご覧になってください。この鏡、肌の変化がよくわかるって評判なんですよ」
おゆきは鏡に映る自分をちらりと見て、ぽつりとつぶやいた。
「……え、なにこれ……つやつや……もちもち……」
自分の頬を軽く触れた指がすべりそうになるほど、肌の感触が違う。おゆきは目を丸くして驚いた。
「これ、まさか……お風呂の力……?」
「はい、湯気と温泉成分と柚子の効果です」
「へぇ……人間って、お湯に入るだけでこんなに変わるんだ……」
そのままタオルで髪を拭きながら、しばらく黙り込んでいたおゆきだったが、ふいにぼそっと漏らす。
「……また入ってもいいかも」
リーナは耳を疑った。「えっ?」
「いや、だから……あの、ほら。次も“気が向いたら”入ってやってもいいかなって。別に好きとかじゃないけど」
「それ、ほとんど好きって言ってます!」
「ちがうもん。『気が向いたら』って言ってるじゃない。私は基本、ごろごろしてたいの!」
「はいはい。ですが、もし次も入りたくなったら、どうぞ遠慮なくお申し付けくださいませ」
リーナがにっこりと微笑むと、おゆきは少しバツが悪そうに頬をふくらませた。
「ちょっと!なんか今、心の中で“ついに落ちた”とか思ったでしょ!」
「そんなことありませんよ?(やっぱり落ちたと思ってますけど)」
「むぅ……でも、まあ……お風呂、悪くないかも……」
おゆきはぼそぼそとつぶやきながら、新しい部屋着に着替え、ふかふかの布団に潜り込んだ。
「はあぁ……これでご飯が出てきたら完璧なんだけど……」
「では、湯上がりの特製ミルクをお持ちしますね」
「えっ、そんなのもあるの?」
リーナがにこにことミルクを差し出すと、おゆきはつい手を伸ばし、あっという間に飲み干してしまった。
「……ああ、ぽかぽかして……なんか、今だけなら世界平和のために何かしてもいいかも……いや、やっぱり寝よう」
そのまま布団の中で丸くなるおゆきの姿に、リーナは微笑みながら部屋の明かりをそっと落とす。
「おやすみなさい、おゆき様。また気が向いたら、お風呂に入りましょうね」
「……うん、気が向いたら……」
そう呟いて、伝説の勇者は再び夢の世界へと旅立ったのだった。
番外編1-5:「王の心配とおゆきの爆弾発言」
翌朝、王宮では一つの話題で盛り上がっていた。
「おゆき様が自ら進んでお風呂に入られたらしいぞ」
「しかも、“また入ってもいいかも”と仰ったとか!」
「伝説の勇者が、ついにお風呂の虜に…!」
その噂は瞬く間に王族、騎士団、そして使用人たちの間に広まり、「勇者様とお風呂」の組み合わせが思わぬ話題性を生んでいた。
その頃、王はいつものように玉座の間で政務をこなしていたが、側近からの報告に目を丸くした。
「お風呂を……自分から……?」
「はい、しかも“また入りたい”とまで……」
王は深く頷き、「これは喜ばしいことだ。健康は何よりも大事だからな」と穏やかに笑った。
しかし、内心では(これは何かの前触れではあるまいか)と、少しだけ不安も覚えていた。なにせ、おゆきの気まぐれと突飛な言動には、過去何度も振り回されてきたのだ。
そしてその日の午後。王は直接おゆきを部屋に訪ねることにした。部屋を訪れると、彼女は布団にくるまりながら、湯上がりのようにぼんやりしていた。
「おゆき様、ご機嫌よう。昨晩はお風呂に入られたと聞きました。体調はいかがですか?」
「うん、まあ……溶けなかった」
「それは……何よりです」
王は苦笑しながら椅子に腰を下ろした。少し沈黙があってから、おゆきはぽつりと呟いた。
「ねえ、王様……お風呂ってさ、世界を救えると思わない?」
「……と申しますと?」
「だって、みんな怒ってる時とかイライラしてる時にさ、あったかいお風呂に入れば少しは落ち着くでしょ?戦争とか争いとか、全部お風呂で解決すればいいのに」
王は目を瞬かせ、口を開いた。「それは……実に壮大かつ斬新な提案ですね」
「でしょ?あのね、世界中の偉い人を集めてさ、まずみんなでお鍋して、それから一緒に温泉に入るの」
「お鍋もですか?」
「うん、まずご飯で仲良くなって、そのあとお風呂で全部流す。それで握手して、はい平和」
王はしばらく絶句したのち、静かに言った。
「おゆき様……おそらくそれは、“勇者”というより、“平和活動家”の発想では?」
「えー、だって戦いたくないし。平和がいちばんでしょ?」
「……仰る通りです」
王は、目の前の勇者の発言に心の底から驚きつつも、思った。
(この方が真面目に世界平和について語ると、なぜか説得力がある……)
おゆきは再び毛布にくるまりながら、「ご飯とお風呂があれば、だいたいの問題は解決するのよ……」と呟いた。
王は深く頷き、「では、今後もおゆき様がご無理のない範囲で、王国の平和を見守ってくださると幸いです」と言って部屋を後にした。
扉の外でリーナが待っており、王はそっと耳打ちした。
「……次の戦争が起きたら、まず温泉を作ろうと思う」
「……王様、それはちょっと極端です」
こうしてまたひとつ、王国の平和は“やる気ゼロの勇者”の突拍子もない発言によって、意外な方向に守られていくこととなったのだった。
--