2-1~勇者の目覚めはラーメンの香りとともに~
冬の寒さが一層深まったある日、王国の空は曇天に覆われ、冷たい風が城壁の隙間から忍び込んでいた。城内の至るところで暖炉が焚かれ、人々は厚手のマントに身を包みながら、温かい飲み物を求めて忙しなく動いていた。
しかし、そんな中でも――この王国の"勇者"であるおゆきは、ふわふわの毛布にくるまりながら、ぬくぬくと昼寝を満喫していた。
「……ふわぁ……寒いなぁ……でも、出たくない……」
ふと目を覚ましたおゆきは、まだ半分夢の中のようなとろんとした目で天井を見上げた。冷気が指先にまで染み込んでくるが、彼女は毛布をさらに巻き付けて、また眠りに戻ろうとする。
――だが、そのときだった。
「ラーメン……食べたい……」
誰に聞かせるでもなく、夢の余韻から絞り出されたその一言。唐突すぎるその欲望に、自身ですら驚いていた。
「……ラーメンって……あれよ、麺をスープで煮て、ずるずるって……あぁ、あの香り……温かいスープの中で、麺と具材がとろけて……」
そう妄想し始めた瞬間、おゆきの脳内には、かつて見た記憶のない美味しそうなラーメンの映像が広がっていた。湯気の立つ丼の中で黄金色のスープがきらめき、柔らかく煮込まれた肉、半熟の煮卵、シャキシャキのもやしやねぎ――。
おゆきは一気に身体を起こした。ぬくぬく毛布を蹴飛ばして立ち上がると、城内に響くような声で叫ぶ。
「だれか! ラーメン作って!」
その場に居合わせたメイドたちは目を見開いて動きを止めた。おゆきが自ら立ち上がること自体が珍しいのだ。しかもその目的が――ラーメン。
やがて、呼ばれてやってきた王の側近が、やや警戒した面持ちで部屋に入る。
「おゆき様、いかがなさいましたか?」
「ラーメン。今すぐ食べたいの。あの、あったかくて、スープがじゅわっとしみてて、ずるずる音を立てても許される……あれ!」
おゆきの瞳は輝いていた。側近は戸惑いながらも、「ラーメンとは、どういった……」と尋ねる。
「えっとね、いろんな味があるの。塩、醤油、味噌……とにかくスープが命! 麺はね、もちもちで、時々ちょっと伸びても美味しいの。具材はね、煮卵があって、チャーシューもあって……はあぁぁ……」
ラーメンを語るおゆきの姿は、王国を守る勇者というよりも、完全にラーメン愛好家そのものであった。
側近はそっとため息をつきながら言った。「かしこまりました。料理長に伝え、ラーメンを…研究させます」
「お願いね。ラーメンのためなら、今日だけちゃんと起きて待っててあげる」
そう言ってにっこり笑うおゆきに、側近は「今日だけ…ですか」と小さく呟きつつ、そっと頭を下げるのだった。
2-2~王国ラーメン計画、始動~
おゆきの強いラーメン欲により、王城は思わぬ緊急事態に突入していた。
「ラーメン、ですか…?」
調理場の総責任者である料理長は、側近からの報告を聞いた途端、眉間に深いしわを刻んだ。聞いたこともない料理名に、周囲の料理人たちもざわついている。
「勇者様のご希望は“ラーメン”。あたたかいスープに麺が入り、チャーシューや煮卵、ねぎ、もやしといった具材が添えられた料理だそうです」
側近は真剣な表情で伝えるが、料理人たちは一様に困惑した顔を浮かべた。
「ねぎと煮卵までは想像がつくが……“もちもちの麺”とは? どのように作るので?」
「スープは“塩、醤油、味噌”と種類があるそうです。だしとは別物のようで……“味が命”とのことです」
料理長は腕を組み、うなった。「ふむ……これは一種の挑戦ですな。勇者様が望む以上、全力で再現せねば!」
その決意に呼応するように、料理人たちは動き出した。パン職人が練り上げた小麦粉の生地で麺を試作し、スープ担当がだしと塩を組み合わせて試行錯誤を重ねる。煮卵の火加減、チャーシューの柔らかさ、もやしの下茹で――すべてが手探りだ。
そして――。
その頃、おゆきはというと、ラーメンの完成を待ちながら再び毛布にくるまっていた。
「はぁ~…楽しみ…。スープを一口すすってから、麺をずるずるって……ああ、ずるずるって音、最高よね…。あれが許される料理って、ラーメンくらいだもの…」
頬を染めながら一人つぶやいている姿は、勇者というより完全にラーメンの亡者である。
部屋の外でそのつぶやきを耳にした側近が、そっと扉を閉めながら小さく呟いた。「おゆき様……やっぱり、面倒くさがりなのに情熱の方向だけ妙に偏っておられる…」
その日、城内の厨房は、史上最大の“未確認料理・ラーメン”の開発に沸き立っていた。勇者のため、そして王国料理界の未来のために――王国ラーメン計画が、今、動き出す。
2-3~運命の一杯、完成~
厨房では緊張が極限にまで高まっていた。無数の試作と失敗を重ね、ついに完成した一杯のラーメンが、銀の器に丁寧に盛られていた。
塩ベースの澄んだスープに、透き通るような細めの麺。上には、低温調理でしっとりと仕上げたチャーシュー、半熟の煮卵、軽く炒めたもやし、そして刻みネギが控えめに散らされている。
「……これは、我々の技術の粋を集めた一杯だ」
料理長は感無量の面持ちでそう呟き、ふうっと湯気を見つめる。
その頃、おゆきは、すでに席についていた。ラーメンの香りが漂ってくると、思わず毛布から這い出てきて、ぱちりと目を覚ました。
「……この香り、来たわね」
目を輝かせたおゆきの前に、ラーメンが運ばれる。料理長たちが見守る中、おゆきは静かに箸を取り、まずはスープを一口。
「……」
数秒の沈黙。
「――しみる……!」
ぽつりとこぼれたその言葉に、厨房の一同が息をのむ。続けて麺を一口、音を立ててすすり上げると、おゆきの表情はふわりと緩んだ。
「うん、これよ。これがラーメンってやつよ……!」
思わず身をよじるように感動し、両手で器を抱えてスープをぐいっと飲む。チャーシューをひとくち頬張れば、そのやわらかさにうっとりし、煮卵のとろける黄身に思わず笑みがこぼれた。
「ラーメン……最高ね……。もう溶けてもいい……」
「それは困ります!」
すかさず側近が突っ込むが、おゆきは気にも留めず、黙々と箸を進めていた。もはや誰の声も届かない。今ここにいるのは、ただ一人、ラーメンと向き合う“勇者”だった。
完食のあと、おゆきはふぅと満足げな息を吐き、布団にくるまりながらこう言った。
「また……作ってね。できれば毎日……」
それは、王国における“定番料理・ラーメン”誕生の瞬間だった。
こうして王国における新たな伝説――『勇者おゆき様とラーメンの邂逅』は、静かに幕を開けたのであった。
2-5~ラーメンのためなら戦えるかもしれない~
ラーメンを食べ終わった後も、おゆきは布団の中から出てこなかった。
食後の幸福感に包まれながら、暖かい毛布にくるまり、ごろごろと転がりながら「ラーメンってすごいわね…」としみじみ呟く。
王の側近がそっと部屋に入ってくると、彼女は顔だけ出して、まるで猫のように目を細めて言った。
「ねえ、あのラーメン…また作ってもらえる?」
「もちろんですとも。おゆき様が気に入ってくださったこと、料理長も大変喜んでおりました」
「そっか…なら安心ね」
彼女はそう言いながら、今度はごろりと仰向けになった。
「ねえ、次は…味噌味とか醤油味とか、色々できたりするのかしら?」
「はい、調味料の調達には少々工夫が必要かもしれませんが、王国料理部門が総力を挙げて取り組んでおります」
「ふーん…いいわね。種類があるって素敵。気分で味を選べるし、毎日でも飽きないもの」
おゆきの視線は、夢の中のラーメンに向けられていた。
「……それに、ラーメンのためなら、戦えるかもしれないわ」
「えっ!? 今なんと……」
おゆきの呟きに側近が思わず聞き返すと、彼女は照れくさそうに唇を尖らせて言った。
「言ってない。気のせいよ」
「いえ、確かに“戦える”と――」
「言ってないの! ラーメンのために剣を取るなんて、そんなの面倒くさすぎるに決まってるじゃない」
そう言いつつ、毛布の中でくるくると丸くなり、「でも…もしラーメンがなくなったら…」と小声で続ける。
「それだけは……耐えられないかも」
その言葉に、側近は思わず真剣な表情になり、ぴしりと敬礼した。
「王国の誇りにかけて、おゆき様のラーメン生活は死守いたします!」
「…そんな大げさに言わなくてもいいのに…」
おゆきはちょっとだけ恥ずかしそうに笑って、再び布団の中へ潜り込んだ。
その日から、王国の厨房では“おゆき様ラーメン”という名の特別プロジェクトが立ち上がることとなった。そして、このプロジェクトは後に民間にも波及し、王都には「ラーメン屋台」や「ラーメン通り」なる文化が生まれ、ラーメンは一大ブームとなっていく――
けれど、おゆきにとってはただ一つ。
「寒い日にラーメンを食べて、ぽかぽか布団に包まれる」
それだけが、何よりの幸福だった。