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第8話 雪女、現代に降り立つ1




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冬の寒さが一層厳しくなった12月のある日、直也は見上げるほどの山に挑むことを決意していた。日頃の忙しさから逃れるようにして選んだ目的地が、この雪山だった。季節外れの登山というだけでも危険だが、直也は「準備さえしっかりしていれば問題ない」と軽く考えていた。


「まさか、こんなことになるなんてな……」


直也は荒れ狂う雪の中で、息を切らしながら歩いていた。吹きつける風が頬を切りつけるようで、何度も引き返そうと思った。しかし「せっかくここまで来たのに」との思いが彼を前へと進ませた。


だが、予想外の事態が直也を襲う。突如として視界が真っ白に覆われ、吹雪の中で進むべき道が完全に消えたのだ。地図も役に立たず、GPSも反応しない。すべてが凍てつき、ただ白い闇が広がるばかり。


「やばい、これ、本当にやばい……」


吹雪は容赦なく直也の体温を奪い、指先は感覚を失いかけていた。寒さで足は動かなくなり、直也は雪の中に崩れ落ちる。心の中で何度も「助けてくれ」と叫びながらも、声にならない言葉が空しく雪に吸い込まれていく。


その時だった。


「まだ生きておるのか?」


冷たい声が耳元で響いた。直也はその声に反応し、かろうじて目を開ける。そこには真っ白な着物をまとった女性が立っていた。肩まで流れる長い白髪と、透き通るような白い肌。その姿は、まるで雪そのものが人の形を取ったかのようだった。


「……誰だ?」


直也がかすれた声で問いかけると、彼女は静かに近づいてきた。その瞳は氷のように冷たく、しかしどこか慈悲深さも感じさせるものだった。


「妾(わらわ)は、この山に住む雪女だ。お主のような愚か者が雪に飲まれるのを見かねて、助けに来たのじゃ。」


「雪女……?」


直也は朦朧とした意識の中で、幼い頃に聞いた昔話を思い出していた。雪女――それは、雪山に住む妖怪で、迷い込んだ人間を凍らせて命を奪う存在だ。だが目の前の彼女は、そんな残酷な印象とは違った。


「なぜ……助ける?」


雪女は冷ややかに微笑んだ。「お主が死ねば、この山が騒がしくなるゆえ。妾は静かな山が好きなのじゃ。それに、ここで死なれては面倒じゃからな。」


どこか突き放すような言葉だったが、直也にはそれが妙に心強く感じられた。雪女は彼の腕を引き、雪の中から引き起こす。


「歩けるか?」


「……無理だ。寒さで……足が……」


直也の体は凍りつき、ほとんど動かない。雪女はため息をつき、「仕方ないのう」と呟くと、彼を背負った。その細い体からは想像できないほどの力強さで、直也を支えながら雪山を進んでいく。



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雪女に背負われたまま、直也は意識を失いかけていた。しかし、かすかな暖かさを感じた瞬間、目を覚ます。気づけば、小さな山小屋の中に横たわっていた。窓の外では吹雪が続いているが、小屋の中は不思議と暖かい。


「目が覚めたか?」


声の方を振り向くと、雪女が直也の前に座っていた。彼女は暖炉の前で静かにこちらを見つめている。どこか不機嫌そうにも見えるが、その目には優しさが宿っていた。


「ここは……?」


「妾が使っている小屋じゃ。お主が無事に目を覚まして良かったのう。」


「ありがとう。助けてくれて……」


雪女は直也の感謝に対し、そっけなく返す。「礼などいらぬ。ただ、お主がここで死んだら、妾の静かな暮らしが乱れるゆえ、助けただけじゃ。」


「……そうかもしれないけど、やっぱり助けられたのは事実だから。」


直也が真剣な表情で答えると、雪女はわずかに頬を染めたように見えた。しかしすぐに冷静な表情に戻り、釘を刺すように言う。


「だが、この出来事を他人に話してはならぬ。妾の存在を人間界に知られるわけにはいかぬからな。」


「誰にも言わないよ。約束する。」


「……ならば良い。」



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雪女は直也に温かいスープを差し出した。「飲め。これで体が温まるはずじゃ。」


直也はそのスープを一口飲み、驚く。「……これ、美味しい!」


雪女はわずかに微笑む。「妾が作るものに不味いものはない。」


「意外だな……雪女って、もっと冷酷で怖いイメージがあったけど。」


「お主、妾を妖怪扱いするつもりか?」


「いや、そんなつもりじゃないけど……その、助けてもらって本当に感謝してる。」


雪女は黙って直也を見つめた後、小さくため息をつく。「妾も、人間とこうして話すのは久しいことじゃ。お主のような愚か者がこの山に迷い込むことも、そう多くはないゆえな。」


「愚か者って……まあ、確かに無茶したのは認めるよ。」


直也が苦笑すると、雪女は少しだけ微笑み返した。



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吹雪が止む頃、雪女は直也を山のふもとまで案内する準備を始めた。


「妾はここまでじゃ。この先は自分で帰るが良い。」


「本当にありがとう……名前を聞いてもいい?」


「妾の名など、覚える必要はない。ただ、秘密を守れ。それが約束じゃ。」


直也は小さくうなずき、雪女の背中に向かって感謝を込めて手を振った。彼女は振り返ることなく、再び雪の中に溶け込むように消えていった。



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こうして、直也と雪女の奇妙な出会いは幕を閉じた。しかし、その出来事が数年後、再び二人を引き合わせるきっかけになるとは、直也はこの時まだ知る由もなかった。




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