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第二章 母の知らなかった母

 調査報告会の翌朝、藍は早く目が覚めていた。

 目覚ましのベルが鳴るよりも前に目が開いたのは、今までの人生で数えるほどしかなかった。

 ベッドから起き上がると、足元の畳がまだ少し冷たい。窓から差し込む光は、初夏の予感を含んだ柔らかい色だった。

 居間に降りると、いつもならそこにあるはずの朝食はなかった。

 代わりに、食卓の真ん中に封筒が一通置かれていた。

 母の字だった。

 宛名は書かれていない。差出人も、もちろんない。

 だが、見た瞬間に、藍はそれが“自分宛”だとわかった。

 そっと指先で封筒をめくると、中から折りたたまれた手紙が出てきた。

 一枚だけ。便箋の端が、少しだけ焼けたように焦げていた。

「藍へ。

 もしこれを読んでいるなら、きっと私のことで何かを知りたいと思ったのでしょう」

 藍はその一行で、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。

「私は、自分の母親のことを、ほとんど知りませんでした。

 あなたにとっては、祖母にあたる人です。名前は、高城絹代。

 絹代は、私が六歳の時にいなくなりました。ある日突然、置き手紙ひとつで姿を消しました」

 ページが震えた。畳の上で、自分の指が少しだけ汗ばんでいることに気づく。

「その手紙には、“必ず戻ります”とだけ書かれていました。

 でも、戻ってはきませんでした」

「私は、絹代のことを恨んだ時期もありました。

 でも、大人になって、あなたを産んで……少しだけ、あの人の気持ちがわかるようになった気がしたの」

 藍は目を閉じた。

 記憶の中にある、母の優しい笑い声がふと蘇る。

 それは、どこかいつも寂しげで――どこか誰かに、ずっと会いたがっていたような気がする。

「あの人は、“娘”である私に、何も遺さなかった。

 だから私は、あなたにだけは、真実を遺しておきたいの」

 便箋の下に添えられていたのは、もう一枚の紙だった。

 それは、茶封筒に入っていたものと同じ、焦げた記録資料の複写だった。

 内容は不完全で、文字が読める部分は限られている。

 だが――その下部に、確かにこうあった。

《記録文書:高城絹代に関する所在確認報告》

《昭和62年8月12日、旧図書館地下収蔵庫にて身柄を保護。本人により自発的な避難を申告》

《理由:公的機関による家庭内調査を回避するため》

「……家庭内調査?」

 呟いた声が、静かな居間に沈んでいく。

 藍は立ち上がり、書類を握りしめたまま、玄関に向かった。

 この記録が正しければ、母――瑞穂の母親である絹代は、決して“ただ逃げた”わけではなかった。

 そこに“家族の内部に起きていた何か”が、確かに関わっていた。

 そして、絹代は――旧図書館の地下に、自ら“避難”していた。

 なぜ図書館だったのか。

 なぜその事実が、母から語られることなく終わったのか。

 藍の足は、気づけば旧図書館へと向かっていた。

 その胸の奥には、もはや「調べたい」という感情ではなく、「知るべきだ」という強い焦りが生まれつつあった。


 旧図書館の裏手――草の茂みに囲まれた細い道を進んでいくと、小さな鉄扉がある。

 以前、資材を搬入するための裏口だったと聞くが、今では関係者すら使わない。

 藍は、その扉の前に立っていた。

 手には、資料室で見つけた古い鍵の束と、白藤から借りた構造図のコピー。

 そこに書かれていた一文――

「地下収蔵庫への直通ルート:旧搬入用階段。鍵A-2対応」

 鍵の束の中から、錆びついた真鍮製の一本を選び、差し込む。

 ひと呼吸置いて、ゆっくり回す。

「……開いた」

 ギィ……という、耳に刺さる音とともに扉が開いた。

 内側には、狭く、急な階段が下りている。手すりは途中で途切れ、壁の照明はすべて切れていた。

 スマホのライトをつけて、慎重に一歩ずつ下りていく。

 埃が舞い、空気がずっしりと重い。

 階段を降りきった先に、古びたドアが一枚。

 その表面には、白く剥げかけたプレートが残っていた。

「収蔵資料室第3区画」

 藍は息を吸い込み、ドアノブを握った。

 開いたその先は、驚くほど整然としていた。

 崩れた棚や散乱した書類はなく、むしろ“片づけられている”印象すらある。

「……誰かが、ここを使ってた?」

 そう呟いた瞬間、ふと目に入った壁際の机。

 そこには、ひとつの湯のみと、新聞の切れ端、そして――小さな布製の財布が置かれていた。

 藍は近づいて、その財布をそっと開けた。

 中には、古びた身分証が一枚。

《氏名:高城絹代》

《発行年:昭和58年》

「……やっぱり」

 母の母は、確かにここに“いた”。

 その時、部屋の隅に置かれた木箱の中から、紙の擦れる音がした。

「誰か……いるのか?」

 藍が声をかけると、しばらくの沈黙ののち――箱の影から、ゆっくりと誰かが姿を現した。

「……びっくりした。てっきり、業者かと思った」

 現れたのは、白髪交じりの初老の男性だった。作業服のまま、手には古いクリップボードを抱えている。

「誰……ですか?」

「ここの記録を管理してた者だよ。今は退職して、名ばかりの“保管責任者”ってことになってるけどな」

 男は笑いながら、机の椅子に腰を下ろした。

 その仕草に、藍の警戒心が少しだけ緩んだ。

「あなた……高城絹代を知ってますか?」

 問いかけに、男は一瞬目を伏せた。

「知ってるとも。“亡霊みたいに暮らしてた女”だった。だけどな――本当は“自分を消すことで、誰かを守ろうとした母親”だったよ」

 藍の喉が、ごくりと鳴った。

「……詳しく、教えてください」

 男は静かに頷いた。

 そして、語り出した――“母の母”がここで何をしていたのか。

 なぜ家を出たのか。

 そして、何を最後まで守ろうとしていたのか。


「絹代さんは……“逃げた”わけじゃなかったんだよ」

 初老の男――元記録管理者は、ゆっくりと記憶の糸を手繰るように話し始めた。

「俺がこの図書館の地下で作業をしていた頃……もう、三十年以上前の話だ。

 夜中に非常灯がついたって警報が鳴ってな。普通ならネズミか何かのいたずらかって思うだろ?

 でも、その日だけは違った。俺が行ってみたら、ひとりの女の人がいたんだ。……それが絹代さんだった」

 藍は唾を飲み込んだ。

「彼女は、“ここに逃げ場所がある”と、誰かから聞いていたらしい。実際、旧図書館のこの地下には、戦後しばらくの間、保護施設の一部が間借りされていた時期がある。

 多くの人が知らないが、行政文書の中には、緊急避難用の指示書がまだ残ってるんだ」

「……じゃあ、祖母は、その避難指示を知っていた?」

「ああ。だが、それを使ったのは“家庭内調査”から身を守るためだった。

 彼女は何度も家庭訪問に来る行政の調査員に怯えていた。……理由は、当時の旦那――つまり、お前の祖父のことだよ」

 藍の目が見開かれた。

「祖父が、何かしたんですか?」

「詳細は話せないが……絹代さんは、“家庭内での精神的虐待”の被害者だったんだと思う。

 だが、昭和の時代は、そんなもの“証拠がなければ存在しない”とされる。

 そして、彼女は子ども――お前の母親の瑞穂さんを守るために、“自分だけが姿を消す”という方法を選んだ」

「……」

「当時、役所に届けられた手紙には、“母親失踪による児童相談対応”という処理がなされていた。

 瑞穂さんは、養育環境に問題なしと判断され、父親のもとで育てられた。……それが正しかったかは、俺には言えない。

 でもな、絹代さんは毎月、ここに来て、瑞穂さんの様子を記録から確認していた。

 決して“見放して”はいなかったんだよ」

 藍はその言葉に、手のひらをぎゅっと握りしめた。

 母が、自分の母に捨てられたと信じていた年月――それは、事実ではなかった。

 絹代は、影の中からずっと娘を見守っていた。

 だが、娘には何も伝えないまま――いつしか消息も絶たれていた。

「最後に絹代さんを見たのは、十五年前だ。

 その年、地下収蔵庫の補強工事があって、以後は立ち入りが制限された。

 以来、彼女はここに姿を見せなくなった。……おそらく、どこか別の場所へ移ったんだろう」

「……ありがとう、ございます」

 藍は深く頭を下げた。

 男は、しばらく黙ってから言った。

「俺は、こう思うよ。

 絹代さんは、物語を書ける人だった。“母親”としての物語と、“個人”としての物語、その両方を。

 だけど、“母親の物語”だけを選んだ。……その結末を、あんたが見つけるんだ」

 藍は、その言葉を胸に刻みながら、地上へと階段を戻っていった。

 その手には、絹代が残した数ページのノートと、破れかけた便箋が握られていた。

 地上に出た時、陽はもう傾きかけていた。

 視界の先に、人影がひとつ立っていた。

 絵美里だった。

「……遅かったじゃない」

 彼女は、腕時計を見て言った。

 きちりと結んだ髪、清潔なスーツ。校外の制服規定すら自分流に乗りこなす、無駄のない優等生。

「……なんでここに?」

 藍が問うと、絵美里はバッグから一冊のファイルを差し出した。

「“文化部の活動”って言って、調査報告書提出してたでしょ。

 先生方、面倒だから“生徒に任せる”って回してきたわ。あたしが“成果の提示”についてチェックするようにって」

「……監査役、ってこと?」

「違うわ。私は、あなたの“保証人”よ。あなたが変な方向に行かないように、ちゃんと結果を出すように――」

 彼女は藍の手にあるノートを見て、言った。

「それ、読ませて」

 藍は、しばらく躊躇してから、静かにノートを渡した。

 絵美里は開くと、そこに書かれた文字に目を通し、少しだけ目を細めた。

「この人、文章、うまいのね。……“語りすぎない”ところがいい」

「祖母……なんです」

「ふうん。いい“素材”になるわね」

「素材……?」

 絵美里は頷いた。

 その目は鋭く、だがどこか熱を帯びていた。

「文化祭で、“この記録”を演出化しましょう。演劇部と文芸部を合同にして、“語られなかった母の物語”として」

「えっ……」

「中途半端な報告会より、ずっと記憶に残るわ。

“真実”っていうのは、記録じゃなくて、語られて初めて意味を持つのよ」

 藍は、言葉を失っていた。

 だが、絵美里の言葉は、静かに彼の心に火を灯していた。

「……お願いします。やってみます。祖母と母の物語、ちゃんと、届けたいから」

 絵美里は、満足げに小さく頷いた。


(第二章 完)


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