調査報告会の翌朝、藍は早く目が覚めていた。
目覚ましのベルが鳴るよりも前に目が開いたのは、今までの人生で数えるほどしかなかった。
ベッドから起き上がると、足元の畳がまだ少し冷たい。窓から差し込む光は、初夏の予感を含んだ柔らかい色だった。
居間に降りると、いつもならそこにあるはずの朝食はなかった。
代わりに、食卓の真ん中に封筒が一通置かれていた。
母の字だった。
宛名は書かれていない。差出人も、もちろんない。
だが、見た瞬間に、藍はそれが“自分宛”だとわかった。
そっと指先で封筒をめくると、中から折りたたまれた手紙が出てきた。
一枚だけ。便箋の端が、少しだけ焼けたように焦げていた。
「藍へ。
もしこれを読んでいるなら、きっと私のことで何かを知りたいと思ったのでしょう」
藍はその一行で、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「私は、自分の母親のことを、ほとんど知りませんでした。
あなたにとっては、祖母にあたる人です。名前は、高城絹代。
絹代は、私が六歳の時にいなくなりました。ある日突然、置き手紙ひとつで姿を消しました」
ページが震えた。畳の上で、自分の指が少しだけ汗ばんでいることに気づく。
「その手紙には、“必ず戻ります”とだけ書かれていました。
でも、戻ってはきませんでした」
「私は、絹代のことを恨んだ時期もありました。
でも、大人になって、あなたを産んで……少しだけ、あの人の気持ちがわかるようになった気がしたの」
藍は目を閉じた。
記憶の中にある、母の優しい笑い声がふと蘇る。
それは、どこかいつも寂しげで――どこか誰かに、ずっと会いたがっていたような気がする。
「あの人は、“娘”である私に、何も遺さなかった。
だから私は、あなたにだけは、真実を遺しておきたいの」
便箋の下に添えられていたのは、もう一枚の紙だった。
それは、茶封筒に入っていたものと同じ、焦げた記録資料の複写だった。
内容は不完全で、文字が読める部分は限られている。
だが――その下部に、確かにこうあった。
《記録文書:高城絹代に関する所在確認報告》
《昭和62年8月12日、旧図書館地下収蔵庫にて身柄を保護。本人により自発的な避難を申告》
《理由:公的機関による家庭内調査を回避するため》
「……家庭内調査?」
呟いた声が、静かな居間に沈んでいく。
藍は立ち上がり、書類を握りしめたまま、玄関に向かった。
この記録が正しければ、母――瑞穂の母親である絹代は、決して“ただ逃げた”わけではなかった。
そこに“家族の内部に起きていた何か”が、確かに関わっていた。
そして、絹代は――旧図書館の地下に、自ら“避難”していた。
なぜ図書館だったのか。
なぜその事実が、母から語られることなく終わったのか。
藍の足は、気づけば旧図書館へと向かっていた。
その胸の奥には、もはや「調べたい」という感情ではなく、「知るべきだ」という強い焦りが生まれつつあった。
旧図書館の裏手――草の茂みに囲まれた細い道を進んでいくと、小さな鉄扉がある。
以前、資材を搬入するための裏口だったと聞くが、今では関係者すら使わない。
藍は、その扉の前に立っていた。
手には、資料室で見つけた古い鍵の束と、白藤から借りた構造図のコピー。
そこに書かれていた一文――
「地下収蔵庫への直通ルート:旧搬入用階段。鍵A-2対応」
鍵の束の中から、錆びついた真鍮製の一本を選び、差し込む。
ひと呼吸置いて、ゆっくり回す。
「……開いた」
ギィ……という、耳に刺さる音とともに扉が開いた。
内側には、狭く、急な階段が下りている。手すりは途中で途切れ、壁の照明はすべて切れていた。
スマホのライトをつけて、慎重に一歩ずつ下りていく。
埃が舞い、空気がずっしりと重い。
階段を降りきった先に、古びたドアが一枚。
その表面には、白く剥げかけたプレートが残っていた。
「収蔵資料室第3区画」
藍は息を吸い込み、ドアノブを握った。
開いたその先は、驚くほど整然としていた。
崩れた棚や散乱した書類はなく、むしろ“片づけられている”印象すらある。
「……誰かが、ここを使ってた?」
そう呟いた瞬間、ふと目に入った壁際の机。
そこには、ひとつの湯のみと、新聞の切れ端、そして――小さな布製の財布が置かれていた。
藍は近づいて、その財布をそっと開けた。
中には、古びた身分証が一枚。
《氏名:高城絹代》
《発行年:昭和58年》
「……やっぱり」
母の母は、確かにここに“いた”。
その時、部屋の隅に置かれた木箱の中から、紙の擦れる音がした。
「誰か……いるのか?」
藍が声をかけると、しばらくの沈黙ののち――箱の影から、ゆっくりと誰かが姿を現した。
「……びっくりした。てっきり、業者かと思った」
現れたのは、白髪交じりの初老の男性だった。作業服のまま、手には古いクリップボードを抱えている。
「誰……ですか?」
「ここの記録を管理してた者だよ。今は退職して、名ばかりの“保管責任者”ってことになってるけどな」
男は笑いながら、机の椅子に腰を下ろした。
その仕草に、藍の警戒心が少しだけ緩んだ。
「あなた……高城絹代を知ってますか?」
問いかけに、男は一瞬目を伏せた。
「知ってるとも。“亡霊みたいに暮らしてた女”だった。だけどな――本当は“自分を消すことで、誰かを守ろうとした母親”だったよ」
藍の喉が、ごくりと鳴った。
「……詳しく、教えてください」
男は静かに頷いた。
そして、語り出した――“母の母”がここで何をしていたのか。
なぜ家を出たのか。
そして、何を最後まで守ろうとしていたのか。
「絹代さんは……“逃げた”わけじゃなかったんだよ」
初老の男――元記録管理者は、ゆっくりと記憶の糸を手繰るように話し始めた。
「俺がこの図書館の地下で作業をしていた頃……もう、三十年以上前の話だ。
夜中に非常灯がついたって警報が鳴ってな。普通ならネズミか何かのいたずらかって思うだろ?
でも、その日だけは違った。俺が行ってみたら、ひとりの女の人がいたんだ。……それが絹代さんだった」
藍は唾を飲み込んだ。
「彼女は、“ここに逃げ場所がある”と、誰かから聞いていたらしい。実際、旧図書館のこの地下には、戦後しばらくの間、保護施設の一部が間借りされていた時期がある。
多くの人が知らないが、行政文書の中には、緊急避難用の指示書がまだ残ってるんだ」
「……じゃあ、祖母は、その避難指示を知っていた?」
「ああ。だが、それを使ったのは“家庭内調査”から身を守るためだった。
彼女は何度も家庭訪問に来る行政の調査員に怯えていた。……理由は、当時の旦那――つまり、お前の祖父のことだよ」
藍の目が見開かれた。
「祖父が、何かしたんですか?」
「詳細は話せないが……絹代さんは、“家庭内での精神的虐待”の被害者だったんだと思う。
だが、昭和の時代は、そんなもの“証拠がなければ存在しない”とされる。
そして、彼女は子ども――お前の母親の瑞穂さんを守るために、“自分だけが姿を消す”という方法を選んだ」
「……」
「当時、役所に届けられた手紙には、“母親失踪による児童相談対応”という処理がなされていた。
瑞穂さんは、養育環境に問題なしと判断され、父親のもとで育てられた。……それが正しかったかは、俺には言えない。
でもな、絹代さんは毎月、ここに来て、瑞穂さんの様子を記録から確認していた。
決して“見放して”はいなかったんだよ」
藍はその言葉に、手のひらをぎゅっと握りしめた。
母が、自分の母に捨てられたと信じていた年月――それは、事実ではなかった。
絹代は、影の中からずっと娘を見守っていた。
だが、娘には何も伝えないまま――いつしか消息も絶たれていた。
「最後に絹代さんを見たのは、十五年前だ。
その年、地下収蔵庫の補強工事があって、以後は立ち入りが制限された。
以来、彼女はここに姿を見せなくなった。……おそらく、どこか別の場所へ移ったんだろう」
「……ありがとう、ございます」
藍は深く頭を下げた。
男は、しばらく黙ってから言った。
「俺は、こう思うよ。
絹代さんは、物語を書ける人だった。“母親”としての物語と、“個人”としての物語、その両方を。
だけど、“母親の物語”だけを選んだ。……その結末を、あんたが見つけるんだ」
藍は、その言葉を胸に刻みながら、地上へと階段を戻っていった。
その手には、絹代が残した数ページのノートと、破れかけた便箋が握られていた。
地上に出た時、陽はもう傾きかけていた。
視界の先に、人影がひとつ立っていた。
絵美里だった。
「……遅かったじゃない」
彼女は、腕時計を見て言った。
きちりと結んだ髪、清潔なスーツ。校外の制服規定すら自分流に乗りこなす、無駄のない優等生。
「……なんでここに?」
藍が問うと、絵美里はバッグから一冊のファイルを差し出した。
「“文化部の活動”って言って、調査報告書提出してたでしょ。
先生方、面倒だから“生徒に任せる”って回してきたわ。あたしが“成果の提示”についてチェックするようにって」
「……監査役、ってこと?」
「違うわ。私は、あなたの“保証人”よ。あなたが変な方向に行かないように、ちゃんと結果を出すように――」
彼女は藍の手にあるノートを見て、言った。
「それ、読ませて」
藍は、しばらく躊躇してから、静かにノートを渡した。
絵美里は開くと、そこに書かれた文字に目を通し、少しだけ目を細めた。
「この人、文章、うまいのね。……“語りすぎない”ところがいい」
「祖母……なんです」
「ふうん。いい“素材”になるわね」
「素材……?」
絵美里は頷いた。
その目は鋭く、だがどこか熱を帯びていた。
「文化祭で、“この記録”を演出化しましょう。演劇部と文芸部を合同にして、“語られなかった母の物語”として」
「えっ……」
「中途半端な報告会より、ずっと記憶に残るわ。
“真実”っていうのは、記録じゃなくて、語られて初めて意味を持つのよ」
藍は、言葉を失っていた。
だが、絵美里の言葉は、静かに彼の心に火を灯していた。
「……お願いします。やってみます。祖母と母の物語、ちゃんと、届けたいから」
絵美里は、満足げに小さく頷いた。
(第二章 完)