視聴覚室の隅、パイプ椅子がずらりと並ぶその一角で、藍は一人、白紙の台本を見つめていた。
台本といっても、内容はまだほとんど空白のまま。表紙の上にだけ、強く筆圧のかかった字でこう書かれている。
《母と娘の証明——高城絹代・瑞穂 記録より》
絵美里の提案により、文化祭の発表は「演出化された朗読劇」として採用された。
演劇部と文芸部の合同公演。内容は、藍の祖母・絹代が遺した手紙とノートの記録を元に構成された“対話形式の物語”。
ただし問題がひとつあった。
「……台詞、ないんだよな」
藍がぽつりとつぶやいた通り、遺された文書の多くは断片的で、まとまった対話にはなっていない。
感情の残滓、語りかけのような文章、日記ともメモともつかない短文の連なり。
それらを「台詞」に変えるには、再構築という作業が必要だった。
「“実際に言ったかどうか”は問題じゃない」
「“この人なら、こう言っただろう”を、演じるの」
絵美里は、はっきりとそう言った。
だが、それは藍にとって――母を、祖母を“書き換える”作業にも思えた。
「……お前、また真面目な顔してるなあ」
背後から肩を軽く叩かれて振り向くと、そこには玲希がいた。
マカロンの新味らしきものを口に入れながら、書きかけの台本を覗き込む。
「“言葉が足りない”ってのは、逆にいえば“自分の言葉を挟める”ってことだぜ?」
「……俺の言葉、入れていいのかな」
「いいに決まってる。だって、これもう“お前の物語”になってるだろ?」
藍は黙って頷いた。
「じゃ、俺は音響まわり見るわ。華枝が照明案持ってくるって言ってたし、早羅も“お清めの塩は持ってく”って張り切ってた」
「お清めの塩?」
「“亡霊の話を演じるなら、霊が本物になって寄ってくる”とか言ってさ。まじで撒く気満々だったぞ」
「……そっちの説得は任せた」
玲希が笑いながら退出すると、今度は結彩がファイルを片手にやってきた。
中には、図書館資料をベースに再構成した“演出順”と、“観客に伝えるための補足パネル案”が詰まっている。
「藍、聞いていい?」
「ん?」
「“知らなかった言葉”を演じるって、怖くない?」
その言葉に、藍は少し黙ってから答えた。
「うん。怖い。でも、演じなかったら、ずっと“なかったこと”になる気がして」
「母も祖母も、確かにここにいたってことを、ちゃんと……残したい」
「そっか。じゃあ、私も手伝うよ。私、ほら、“物が散らかっても気にしない”から、気楽にね」
そう言って笑う結彩の手元には、ぐしゃぐしゃになった付箋だらけの台本草案。
整ってはいないけど、どこか“生きている”構成だった。
その夜、藍は一人で校内の旧演劇練習室に残っていた。
録音用の機材、背景パネルのフレーム、絵美里が手配した照明装置――すべてが、仮組みのまま散乱している。
しかし、今までどこにも自分の“居場所”がなかった藍にとって、
この混沌の中にある仮設舞台こそが、生まれて初めての“発信点”になっていた。
彼は台本の最初のページに、ペンで一文だけ書いた。
「わたしが、いなかったことにされたとしても。あなたにだけは、わたしの声が届きますように」
それは、絹代の言葉だった。
でも今、その言葉は――藍自身の心から出たものだった。
文化祭当日。
体育館の片隅、特設ステージのカーテン裏で、藍は深く息を吸い込んでいた。
客席には生徒たち、保護者、地域の住民、さらには市の文化振興課の職員まで詰めかけている。
ざわついた空気の中、音響調整に余念がない玲希がピースサインを送ってきた。
華枝は照明の最終確認に走り回り、早羅はお清めの塩をステージの角に「控えめに」撒いていた。
そして、絵美里がカンペの束を片手に壇上に立つ。
「朗読劇『母と娘の証明』を始めます。本作は実際の資料をもとに、フィクションとして構成されています。
記録は遺され、言葉は交わされなかった。でも、それでも“語る”ことを選びました」
拍手が、ひとつまみの期待と混ざって響いた。
藍は、台本の一ページ目をめくる。
舞台のセンターには、結彩が立っている。彼女が“高城瑞穂”――藍の母の役を演じる。
対する“絹代”の声は、録音に残された演出付きの朗読音声。
そして、藍自身は“語り部”として、二人の物語の間をつなぐ役を担っていた。
──照明が落ち、音響が静かに鳴る。
──幕が上がる。
語り部の声が、藍の声が、初めて広い空間に響いた。
「この物語は、燃え残った紙片から始まる。
誰かに届けたかった、言葉のかけらたち。
それを、今ここで、私たちは演じます」
舞台に、母・瑞穂が登場する。
演じる結彩の声は、普段の彼女からは想像できないほど、静かで、芯があった。
「お母さん、どうして、黙っていたの。
私は、ずっとあなたに答えを求めていたのに。
でも、答えのない問いほど、人を縛るものはなかったわ」
そして、録音された絹代の声が、柔らかく重なる。
「わたしは、母親になって初めて、自分が“娘”だったと気づいたの。
あなたの中に、かつてのわたしを見て、
守ることしかできなかった。……だから、逃げたのよ」
観客席は静まり返っていた。
体育館のざわめきも、窓の外の風も、今は何ひとつ聞こえない。
ただ、語られなかった“声”が、今、初めて形を与えられていた。
藍は、語り部として最後の言葉を口にした。
「家族とは、記録ではない。血ではない。
誰かの“声”を聞くということ。
その声に、どう応えるかで、繋がっていくものだと、僕は思います」
最後の照明が落ち、幕が閉まった。
一瞬の沈黙の後、拍手が湧き起こった。
それは、盛大ではなかったかもしれない。
けれど、確かに“届いた”拍手だった。
舞台裏。
藍は、震える手で台本を抱きしめたまま、誰とも言葉を交わせずにいた。
だが、すぐに結彩がそばにきて、ぽん、と背中を叩いた。
「やったじゃん、藍。あなた、ちゃんと話せたよ。
それに……誰の代わりでもなく、“あなた自身の言葉”だった」
その言葉に、藍は初めて、台本から目を上げた。
そして、ほんのわずかに、微笑んだ。
「……ありがとう。手紙が届いた気がする」
絵美里が控え室に戻ってきて、タブレットを差し出した。
SNSには、感想のコメントが並び始めていた。
「“記録じゃない記憶”って、すごく響いた」
「自分の家族にも言えないことあるって気づいた」
「泣いた、じゃなくて、“聞いてよかった”と思えた」
絵美里は淡々と画面を見せながら言った。
「この作品、来月の市民文化発表会に推薦されるかも。
“高校生が家族の記録を演出した例”として、ちょっと話題になってる」
「推薦……されるんですか?」
「当然よ。私は、“成果を確実に上げる”って決めてたから」
そう言って、小さく笑う絵美里の目は、どこか少し優しかった。
(第三章 完)