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第四章 まだ届かない声

 文化祭の朗読劇が終わってから数日後、藍は妙な浮遊感の中にいた。

 公演は成功だった。評判も上々で、学校内でも演出内容が褒められ、次の市民文化発表会への推薦も現実味を帯びてきていた。

 それでも、藍の中には拭い切れない“欠け”があった。

 何かが終わったのではない。

 むしろ、これから何かを“迎えに行かなければならない”ような、そんな予感。

 放課後、彼は誰もいない図書館の隅の席にひとり座り、朗読劇の台本をめくっていた。

 ページの隙間から、あの焼けた手紙の写しが一枚はみ出している。

「どうか、あの子には真実だけでも届きますように」

 祖母・絹代が遺した最後の一文。

 確かに演じた。言葉にした。観客にも伝えた。

 けれど――“母”にだけは、まだ届いていない気がしていた。

 その瞬間、机の上のスマホが震えた。

 画面には、登録していない番号からの着信表示。

 迷った末に、藍は受話ボタンを押した。

「……はい」

『あ、あの、すみません。私、瑞穂さんのことで少し……』

「え?」

 電話の相手は、声の調子からして女性で、どこか言葉を選んでいるような、慎重さがあった。

『私、瑞穂さんの昔の友人で……いえ、“元同僚”のほうが近いです。

 実は文化祭の公演を拝見して……偶然です、本当に偶然。知人が撮った動画に写っていて』

「……あの、それで?」

『あの手紙、朗読の中にあった最後の言葉……“真実を届けたい”という言葉。

 あれ、彼女が生前、よく言っていたんです。“私もいつか、子どもに説明しなきゃ”って』

「母が……?」

『でも、彼女、結局一度もちゃんと話さなかった。多分、自分の中で“整理”がついてなかったんだと思います』

 藍は、手紙を強く握りしめた。

『彼女、最後の方は何度も日記を書いていました。

 ……それを、もしあなたが受け取ってくれるなら、私、お渡ししたくて』

「日記、ですか?」

『はい。亡くなる前に預かっていたんです。“燃やして”って言われていたんですけど……燃やせなかった。

 きっと、あれは誰かに読まれるために書かれたものだったと思うから』

 言葉が途切れた。藍も、すぐには返せなかった。

 だが、ようやく口を開く。

「……会って、受け取らせてください。僕、母がどんなふうに生きてたのか……知りたいんです」

『ありがとうございます。……じゃあ、週末、図書館の近くのカフェで』

 通話が切れたあと、藍はその場から動けずにいた。

 母が“語れなかった言葉”。

 それが、今、ようやく彼の手に届こうとしていた。


 週末。

 市内の小さなカフェで、藍はその“元同僚”と名乗る女性と会った。

 スーツ姿で、細い眼鏡をかけた物静かな女性だった。

「これが、日記です」

 彼女が差し出したのは、A5サイズのノートが数冊。赤いゴムで丁寧にまとめられていた。

 藍は、受け取ったそれをそっと開いた。

《6月12日。今日はどうしても、夢に母が出てきた。

 私はもう、自分が母になってしまったのに、まだあの人のことを“母”と呼んでしまう。

 あの人はきっと、ずっと、私を“子ども”のままで守ろうとしていたのだと思う。》

 ページをめくるたびに、瑞穂――母の“声”が、そこに息づいていた。

 葛藤、孤独、不安、そして、藍への愛情。

 どの言葉も、演じた“台詞”よりも、生々しく、そして確かだった。

「これは……舞台じゃ、語れなかった……」

 ぽつりと、藍がつぶやく。

「そうかもしれませんね。

 でも、舞台があったから、ここまで届いたんです。……“届かなかった声”を、あなたが迎えに来た」

 そう言った女性の目は、どこか涙ぐんでいた。

 藍は、ノートを胸に抱き、深く頭を下げた。

 母は、最後まで“語れなかった”。

 けれど今、その声は確かに、息子の手の中にある。


(第四章 完)


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