文化祭の朗読劇が終わってから数日後、藍は妙な浮遊感の中にいた。
公演は成功だった。評判も上々で、学校内でも演出内容が褒められ、次の市民文化発表会への推薦も現実味を帯びてきていた。
それでも、藍の中には拭い切れない“欠け”があった。
何かが終わったのではない。
むしろ、これから何かを“迎えに行かなければならない”ような、そんな予感。
放課後、彼は誰もいない図書館の隅の席にひとり座り、朗読劇の台本をめくっていた。
ページの隙間から、あの焼けた手紙の写しが一枚はみ出している。
「どうか、あの子には真実だけでも届きますように」
祖母・絹代が遺した最後の一文。
確かに演じた。言葉にした。観客にも伝えた。
けれど――“母”にだけは、まだ届いていない気がしていた。
その瞬間、机の上のスマホが震えた。
画面には、登録していない番号からの着信表示。
迷った末に、藍は受話ボタンを押した。
「……はい」
『あ、あの、すみません。私、瑞穂さんのことで少し……』
「え?」
電話の相手は、声の調子からして女性で、どこか言葉を選んでいるような、慎重さがあった。
『私、瑞穂さんの昔の友人で……いえ、“元同僚”のほうが近いです。
実は文化祭の公演を拝見して……偶然です、本当に偶然。知人が撮った動画に写っていて』
「……あの、それで?」
『あの手紙、朗読の中にあった最後の言葉……“真実を届けたい”という言葉。
あれ、彼女が生前、よく言っていたんです。“私もいつか、子どもに説明しなきゃ”って』
「母が……?」
『でも、彼女、結局一度もちゃんと話さなかった。多分、自分の中で“整理”がついてなかったんだと思います』
藍は、手紙を強く握りしめた。
『彼女、最後の方は何度も日記を書いていました。
……それを、もしあなたが受け取ってくれるなら、私、お渡ししたくて』
「日記、ですか?」
『はい。亡くなる前に預かっていたんです。“燃やして”って言われていたんですけど……燃やせなかった。
きっと、あれは誰かに読まれるために書かれたものだったと思うから』
言葉が途切れた。藍も、すぐには返せなかった。
だが、ようやく口を開く。
「……会って、受け取らせてください。僕、母がどんなふうに生きてたのか……知りたいんです」
『ありがとうございます。……じゃあ、週末、図書館の近くのカフェで』
通話が切れたあと、藍はその場から動けずにいた。
母が“語れなかった言葉”。
それが、今、ようやく彼の手に届こうとしていた。
週末。
市内の小さなカフェで、藍はその“元同僚”と名乗る女性と会った。
スーツ姿で、細い眼鏡をかけた物静かな女性だった。
「これが、日記です」
彼女が差し出したのは、A5サイズのノートが数冊。赤いゴムで丁寧にまとめられていた。
藍は、受け取ったそれをそっと開いた。
《6月12日。今日はどうしても、夢に母が出てきた。
私はもう、自分が母になってしまったのに、まだあの人のことを“母”と呼んでしまう。
あの人はきっと、ずっと、私を“子ども”のままで守ろうとしていたのだと思う。》
ページをめくるたびに、瑞穂――母の“声”が、そこに息づいていた。
葛藤、孤独、不安、そして、藍への愛情。
どの言葉も、演じた“台詞”よりも、生々しく、そして確かだった。
「これは……舞台じゃ、語れなかった……」
ぽつりと、藍がつぶやく。
「そうかもしれませんね。
でも、舞台があったから、ここまで届いたんです。……“届かなかった声”を、あなたが迎えに来た」
そう言った女性の目は、どこか涙ぐんでいた。
藍は、ノートを胸に抱き、深く頭を下げた。
母は、最後まで“語れなかった”。
けれど今、その声は確かに、息子の手の中にある。
(第四章 完)