日記を受け取った翌朝、藍は早朝の学校に向かった。
誰もいないはずの文芸室に灯りがついていて、扉を開けると、机にノートを並べていたのは結彩だった。
「おはよう、早いね」
「こっちの台詞……っていうか、鍵開いてた?」
「昨日、玲希が“ついでに開けとくわ”って言ってた」
いつもながら、鍵の扱いが軽すぎる。
だが今はそんな細かいことにかまっていられなかった。
藍は結彩の前に座り、バッグから赤いゴムで束ねた母の日記を取り出す。
「それが、例の……」
「……うん。母が“語らなかった”じゃなくて、“語れなかった”もの」
二人は、ノートの一冊目を開く。
読み進めるほどに、母・瑞穂の言葉が深く、重く、そして繊細に息づいていることに気づく。
《藍には、自分の過去を重ねたくない。
でも、言葉にしないと、同じ傷を受け継がせてしまいそうで怖い》
《あの子の将来を思うと、私自身の“説明”が必要になる。
だけど、言葉が足りない。何を話せばいいのかが、分からない》
「……わかる気がする」
結彩が静かに言った。
「言いたいことがあるのに、言葉にできないときって、ある。
たとえば、“ありがとう”って言えなくて、机の上にメモを置くだけになったり。……それって、やっぱり逃げてるのかな」
「逃げてたって、いいと思う。……でも、あとで“もう一度向き合いたい”って思えたら、逃げたことにも意味がある気がする」
藍の声は、以前よりも深くなっていた。
それは“語る側”としての自覚の芽生えだった。
「この日記、整理して……新しい台本にしたい」
「文化祭のときとは違う、“母が書いた言葉”そのままを使って、朗読会にしたいんだ」
「録音じゃなくて、生の声で?」
「うん。今度は“誰かの物語”じゃなくて、“母自身の声”を伝えたい」
その言葉に、結彩はしばらく沈黙し、やがて微笑んだ。
「それ、私も読んでみたいな。……いや、演じてみたい。
今まで、物を散らかしてばっかりだったけど、ちゃんとひとつくらい“形”にしてみたいし」
その時、ドアが開いて玲希と華枝が入ってきた。
「なー、朝からマジメな空気出すなよ。眠くなるだろ」
「何してるの?」と華枝が言いながら、机の上のノートを手に取った。
ページをめくるたびに、彼女の目が真剣な色になる。
「……この人、すごく頭いいね。言葉の裏に、言葉が隠れてる。
たぶん、読む人によって、まったく違う印象になる」
玲希が横から覗き込み、「マカロンと真逆の味って感じだな」と言って肩をすくめた。
「これさ、ほんとに“朗読”だけでいいのか?」
「え?」
「……映像、つけようぜ。
母親がどんな景色を見てたのか、“言葉”じゃなくて“画”で補足したら、もっと伝わると思う」
「映像班、玲希がやるの?」
「俺しかいないだろ。……お前の母ちゃんの物語、勝手に終わらせるなよ」
そう言って、にやりと笑う玲希の表情に、藍は何かを託された気がした。
この物語は、母だけのものでも、祖母だけのものでもない。
いま、自分と、仲間とで紡ぎ直す“記録”になる。
「朗読会、やろう。……タイトルは、『わたしを語る言葉へ』で」
藍の声に、誰もが黙って頷いた。
(第五章 完)