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第五章 わたしを語る言葉へ

 日記を受け取った翌朝、藍は早朝の学校に向かった。

 誰もいないはずの文芸室に灯りがついていて、扉を開けると、机にノートを並べていたのは結彩だった。

「おはよう、早いね」

「こっちの台詞……っていうか、鍵開いてた?」

「昨日、玲希が“ついでに開けとくわ”って言ってた」

 いつもながら、鍵の扱いが軽すぎる。

 だが今はそんな細かいことにかまっていられなかった。

 藍は結彩の前に座り、バッグから赤いゴムで束ねた母の日記を取り出す。

「それが、例の……」

「……うん。母が“語らなかった”じゃなくて、“語れなかった”もの」

 二人は、ノートの一冊目を開く。

 読み進めるほどに、母・瑞穂の言葉が深く、重く、そして繊細に息づいていることに気づく。

《藍には、自分の過去を重ねたくない。

 でも、言葉にしないと、同じ傷を受け継がせてしまいそうで怖い》

《あの子の将来を思うと、私自身の“説明”が必要になる。

 だけど、言葉が足りない。何を話せばいいのかが、分からない》

「……わかる気がする」

 結彩が静かに言った。

「言いたいことがあるのに、言葉にできないときって、ある。

 たとえば、“ありがとう”って言えなくて、机の上にメモを置くだけになったり。……それって、やっぱり逃げてるのかな」

「逃げてたって、いいと思う。……でも、あとで“もう一度向き合いたい”って思えたら、逃げたことにも意味がある気がする」

 藍の声は、以前よりも深くなっていた。

 それは“語る側”としての自覚の芽生えだった。

「この日記、整理して……新しい台本にしたい」

「文化祭のときとは違う、“母が書いた言葉”そのままを使って、朗読会にしたいんだ」

「録音じゃなくて、生の声で?」

「うん。今度は“誰かの物語”じゃなくて、“母自身の声”を伝えたい」

 その言葉に、結彩はしばらく沈黙し、やがて微笑んだ。

「それ、私も読んでみたいな。……いや、演じてみたい。

 今まで、物を散らかしてばっかりだったけど、ちゃんとひとつくらい“形”にしてみたいし」

 その時、ドアが開いて玲希と華枝が入ってきた。

「なー、朝からマジメな空気出すなよ。眠くなるだろ」

「何してるの?」と華枝が言いながら、机の上のノートを手に取った。

 ページをめくるたびに、彼女の目が真剣な色になる。

「……この人、すごく頭いいね。言葉の裏に、言葉が隠れてる。

 たぶん、読む人によって、まったく違う印象になる」

 玲希が横から覗き込み、「マカロンと真逆の味って感じだな」と言って肩をすくめた。

「これさ、ほんとに“朗読”だけでいいのか?」

「え?」

「……映像、つけようぜ。

 母親がどんな景色を見てたのか、“言葉”じゃなくて“画”で補足したら、もっと伝わると思う」

「映像班、玲希がやるの?」

「俺しかいないだろ。……お前の母ちゃんの物語、勝手に終わらせるなよ」

 そう言って、にやりと笑う玲希の表情に、藍は何かを託された気がした。

 この物語は、母だけのものでも、祖母だけのものでもない。

 いま、自分と、仲間とで紡ぎ直す“記録”になる。

「朗読会、やろう。……タイトルは、『わたしを語る言葉へ』で」

 藍の声に、誰もが黙って頷いた。


(第五章 完)


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