朗読会の開催が決まったのは、秋の訪れがはっきりと感じられる頃だった。
校内ではすでに冬服への移行が始まり、図書館の前の銀杏の葉が地面に黄金色のカーペットを敷いていた。
今回の朗読会は、市の文化振興課が主催する「市民文化発表会」の一枠として採用された。
演題は《わたしを語る言葉へ》。
母・瑞穂の日記を元に再構成した“記録”と“語り”の融合――だが、企画書には一行だけ、藍の直筆でこう記されていた。
「これは、記録の朗読ではなく、記録にならなかった“声”の朗読です」
準備は順調ではなかった。
演出は簡素で、登場人物は少ないが、問題は“言葉の重さ”だった。
「……これ、朗読してると、こっちが持ってかれそうになるね」
台詞の練習中、結彩がふと漏らした。
彼女が読むパートには、瑞穂が幼い藍に語りかけるような言葉が多く含まれていた。
《あなたは、わたしの記憶の中で、いつも笑っている。
でも、本当に笑っていたかどうかは、私はもう思い出せないの》
《あなたが無言で背を向けた日のこと、私は今でも夢に見る。
あれは、私が“母親”でいられなかった日》
言葉を読むたびに、胸に響く振動が内側からじわじわと広がっていく。
結彩の声も、練習の途中でふと震えたことがあった。
「……ごめん、少し、外、歩いてくる」
「大丈夫。無理しなくていい」
藍はそう言って、結彩の背中をそっと見送った。
言葉を受け止めることは、時に読む側の内側をも深くえぐる。
だからこそ、演じるより“語る”方がずっと苦しい。
練習室には、玲希がノートパソコンを開いて編集していた映像のサンプルが流れていた。
市内の風景、図書館の階段、古びた机、誰かの手が便箋をめくる映像――
音はなく、ただ淡く揺れる光の粒子だけが重ねられていた。
「……言葉、強すぎるから。映像は、何も主張しない方がいい気がして」
玲希のその言葉に、藍はふと目を細めた。
「主張しない映像……って、藍っぽいかもな」
「俺?」
「うん。昔の藍は、いつも主張しない“人”だったでしょ。
でも、だからこそ、今は誰かの声を“聴ける”ようになったんじゃないかなって」
玲希は、肩をすくめながら言った。
「俺はさ、正直“母親の過去”とか“家庭のこと”とか、あんま深く考えてなかったんだよ。
だけど、お前の話を聞いてるうちに、俺も“俺の親は何考えてるんだろ”って思うようになった」
「それ、親に話してみた?」
「いや、それはムリ。……マカロンでごまかすわ」
ふたりで、軽く笑った。
その時、練習室の扉が開いて、早羅が入ってきた。
手には、神社でもらったらしい白い封筒と、絵美里が印刷してくれた朗読会のパンフレット。
「これ、配布用ね。レイアウト直して、演者紹介も載せた。……絵美里が“ギリ合格”って言ってた」
藍はパンフレットを手に取る。
表紙には、タイトルの下にこう記されていた。
「聞こえなかった声を、いま聴くために。
話されなかった言葉を、いま語るために」
その一行を見て、藍はそっと息を吐いた。
朗読会は、翌週の土曜日。
場所は市民会館の小ホール。客席数は120。
舞台装飾は最低限、音響は玲希、照明は華枝、語り手は結彩、サポートナレーションを藍自身が担当する。
これは、母に贈る“後書き”であり、
まだ届いていない、そしてこれから誰かに届く“はじまりの声”。
次第に冬の気配が深まっていく中、藍の胸には確かな熱が宿り続けていた。
(第六章 完)