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第六章 声にならない記録、記録にならない声

 朗読会の開催が決まったのは、秋の訪れがはっきりと感じられる頃だった。

 校内ではすでに冬服への移行が始まり、図書館の前の銀杏の葉が地面に黄金色のカーペットを敷いていた。

 今回の朗読会は、市の文化振興課が主催する「市民文化発表会」の一枠として採用された。

 演題は《わたしを語る言葉へ》。

 母・瑞穂の日記を元に再構成した“記録”と“語り”の融合――だが、企画書には一行だけ、藍の直筆でこう記されていた。

「これは、記録の朗読ではなく、記録にならなかった“声”の朗読です」

 準備は順調ではなかった。

 演出は簡素で、登場人物は少ないが、問題は“言葉の重さ”だった。

「……これ、朗読してると、こっちが持ってかれそうになるね」

 台詞の練習中、結彩がふと漏らした。

 彼女が読むパートには、瑞穂が幼い藍に語りかけるような言葉が多く含まれていた。

《あなたは、わたしの記憶の中で、いつも笑っている。

 でも、本当に笑っていたかどうかは、私はもう思い出せないの》

《あなたが無言で背を向けた日のこと、私は今でも夢に見る。

 あれは、私が“母親”でいられなかった日》

 言葉を読むたびに、胸に響く振動が内側からじわじわと広がっていく。

 結彩の声も、練習の途中でふと震えたことがあった。

「……ごめん、少し、外、歩いてくる」

「大丈夫。無理しなくていい」

 藍はそう言って、結彩の背中をそっと見送った。

 言葉を受け止めることは、時に読む側の内側をも深くえぐる。

 だからこそ、演じるより“語る”方がずっと苦しい。

 練習室には、玲希がノートパソコンを開いて編集していた映像のサンプルが流れていた。

 市内の風景、図書館の階段、古びた机、誰かの手が便箋をめくる映像――

 音はなく、ただ淡く揺れる光の粒子だけが重ねられていた。

「……言葉、強すぎるから。映像は、何も主張しない方がいい気がして」

 玲希のその言葉に、藍はふと目を細めた。

「主張しない映像……って、藍っぽいかもな」

「俺?」

「うん。昔の藍は、いつも主張しない“人”だったでしょ。

 でも、だからこそ、今は誰かの声を“聴ける”ようになったんじゃないかなって」

 玲希は、肩をすくめながら言った。

「俺はさ、正直“母親の過去”とか“家庭のこと”とか、あんま深く考えてなかったんだよ。

 だけど、お前の話を聞いてるうちに、俺も“俺の親は何考えてるんだろ”って思うようになった」

「それ、親に話してみた?」

「いや、それはムリ。……マカロンでごまかすわ」

 ふたりで、軽く笑った。

 その時、練習室の扉が開いて、早羅が入ってきた。

 手には、神社でもらったらしい白い封筒と、絵美里が印刷してくれた朗読会のパンフレット。

「これ、配布用ね。レイアウト直して、演者紹介も載せた。……絵美里が“ギリ合格”って言ってた」

 藍はパンフレットを手に取る。

 表紙には、タイトルの下にこう記されていた。

「聞こえなかった声を、いま聴くために。

 話されなかった言葉を、いま語るために」

 その一行を見て、藍はそっと息を吐いた。

 朗読会は、翌週の土曜日。

 場所は市民会館の小ホール。客席数は120。

 舞台装飾は最低限、音響は玲希、照明は華枝、語り手は結彩、サポートナレーションを藍自身が担当する。

 これは、母に贈る“後書き”であり、

 まだ届いていない、そしてこれから誰かに届く“はじまりの声”。

 次第に冬の気配が深まっていく中、藍の胸には確かな熱が宿り続けていた。


(第六章 完)


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