朗読会当日。
市民会館の小ホールのロビーは、開場前の控えめなざわめきに包まれていた。
受付には、学校名と演目タイトルが印刷された立て看板。
横に置かれたパンフレットには、簡素ながら丁寧に折り目が揃えられた小冊子が積まれている。
絵美里は、その印刷面の光沢と文字のにじみを一つひとつ確認していた。
「これで、整った。……あとは、舞台」
彼女の横では、早羅が自作の「空間清めの小瓶」を並べていた。
小さなガラス瓶に塩と米、そして乾燥させたラベンダーが入っている。
「私、今日は“語られなかった者たちの代理人”だからね。霊的な意味で」
「いつもながら設定が濃い……」と絵美里がため息をつきかけたが、それ以上は何も言わなかった。
それぞれが、自分なりの“灯”を持ち寄っていた。それが、今日という日の意味だった。
楽屋。
藍は台本を膝に乗せていた。
その上には、母・瑞穂の日記の一節が貼りつけてある。
《誰かに届かないなら、それは書かなかったのと同じ。
でも、誰かが“読もう”としてくれたら、それは“生き直す”ってことになるんじゃないかと思う》
彼は、これまで幾度も“読むこと”をしてきた。
だが今、自分がやるべきは、“読んで語る”ではなく、“語るように読む”ことだった。
「緊張してる?」
声をかけてきたのは結彩。
藍は少しだけ目を細めて頷いた。
「……うん。正直、文化祭より怖い。これは、僕だけの物語だから」
「違うよ。……“私たち”の物語にしてくれたじゃん、藍が」
彼女はそう言って、机の上に置かれた“朗読構成案”に目を落とした。
「でも、わかるよ。
これ読んでると、すごく、誰かの中の“忘れられてた痛み”を、こっちが呼び起こすような気がして」
「うん。でも、それってたぶん……必要なことなんだと思う」
藍が答えた声には、少しだけ、迷いが消えていた。
開演時間。
客席は、予想以上の埋まり具合だった。
市の関係者、地元新聞の文化欄担当、教員、保護者、そして――
藍の席の後ろから、ひとりの年配女性がそっと着席する。
白藤だった。
彼女は何も言わず、ただパンフレットを丁寧に開いた。
そこに綴られた演目の内容に、何度も目を通す。
かつて旧図書館で藍と出会ったときの“泥だらけの少年”が、
今、どんな言葉で自分の物語を結びに行くのか――それを見届けようとしていた。
照明が落ちる。
暗転した舞台に、穏やかなピアノの音が流れる。
それは、玲希が夜なべして作ったオリジナルBGMだった。
ナレーションの語りが始まる。
結彩の声が、マイクを通さず、静かに、しかしはっきりと響いた。
「わたしは、母の声を知らない。
でも、母は、わたしに“声を遺して”くれていた」
映像スクリーンには、日記の断片と、それに添える風景のスライド。
一枚一枚が、まるで母の記憶のアルバムのように流れていく。
そして藍が登壇し、最後の朗読に入る。
「“わたしは母親だった”と、誰にも言えないまま、
母は、自分を記録することも、誰かに残すことも、しなかった」
「でも、こうして今、
あなたの言葉を、あなたが言えなかった言葉を、
私は読みます」
「あなたが語れなかった痛みを、
私は声にします」
長い沈黙のあと、藍は台本を閉じた。
舞台の照明がゆっくりと明るくなっていく。
カーテンが閉じるその瞬間、彼は小さく、ひとつ、息を吐いた。
その胸には、確かに“届いた”という実感があった。
そして、客席の片隅で目元を拭っていた白藤が、席を立って帰ろうとしたその時――
一人の年配の男性が、藍のもとへ静かに近づいてきた。
「……君が、瑞穂さんの息子さんかい?」
「はい……そうですが」
「わたしは、絹代さんの昔の知り合いだ。
……まだ、話していないことがある」
藍の心が、ふたたび“声”に向かって動き始めた。
(第七章 完)