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第七章 遺された言葉に灯をともす

 朗読会当日。

 市民会館の小ホールのロビーは、開場前の控えめなざわめきに包まれていた。

 受付には、学校名と演目タイトルが印刷された立て看板。

 横に置かれたパンフレットには、簡素ながら丁寧に折り目が揃えられた小冊子が積まれている。

 絵美里は、その印刷面の光沢と文字のにじみを一つひとつ確認していた。

「これで、整った。……あとは、舞台」

 彼女の横では、早羅が自作の「空間清めの小瓶」を並べていた。

 小さなガラス瓶に塩と米、そして乾燥させたラベンダーが入っている。

「私、今日は“語られなかった者たちの代理人”だからね。霊的な意味で」

「いつもながら設定が濃い……」と絵美里がため息をつきかけたが、それ以上は何も言わなかった。

 それぞれが、自分なりの“灯”を持ち寄っていた。それが、今日という日の意味だった。


 楽屋。

 藍は台本を膝に乗せていた。

 その上には、母・瑞穂の日記の一節が貼りつけてある。

《誰かに届かないなら、それは書かなかったのと同じ。

 でも、誰かが“読もう”としてくれたら、それは“生き直す”ってことになるんじゃないかと思う》

 彼は、これまで幾度も“読むこと”をしてきた。

 だが今、自分がやるべきは、“読んで語る”ではなく、“語るように読む”ことだった。

「緊張してる?」

 声をかけてきたのは結彩。

 藍は少しだけ目を細めて頷いた。

「……うん。正直、文化祭より怖い。これは、僕だけの物語だから」

「違うよ。……“私たち”の物語にしてくれたじゃん、藍が」

 彼女はそう言って、机の上に置かれた“朗読構成案”に目を落とした。

「でも、わかるよ。

 これ読んでると、すごく、誰かの中の“忘れられてた痛み”を、こっちが呼び起こすような気がして」

「うん。でも、それってたぶん……必要なことなんだと思う」

 藍が答えた声には、少しだけ、迷いが消えていた。


 開演時間。

 客席は、予想以上の埋まり具合だった。

 市の関係者、地元新聞の文化欄担当、教員、保護者、そして――

 藍の席の後ろから、ひとりの年配女性がそっと着席する。

 白藤だった。

 彼女は何も言わず、ただパンフレットを丁寧に開いた。

 そこに綴られた演目の内容に、何度も目を通す。

 かつて旧図書館で藍と出会ったときの“泥だらけの少年”が、

 今、どんな言葉で自分の物語を結びに行くのか――それを見届けようとしていた。


 照明が落ちる。

 暗転した舞台に、穏やかなピアノの音が流れる。

 それは、玲希が夜なべして作ったオリジナルBGMだった。

 ナレーションの語りが始まる。

 結彩の声が、マイクを通さず、静かに、しかしはっきりと響いた。

「わたしは、母の声を知らない。

 でも、母は、わたしに“声を遺して”くれていた」

 映像スクリーンには、日記の断片と、それに添える風景のスライド。

 一枚一枚が、まるで母の記憶のアルバムのように流れていく。

 そして藍が登壇し、最後の朗読に入る。

「“わたしは母親だった”と、誰にも言えないまま、

 母は、自分を記録することも、誰かに残すことも、しなかった」

「でも、こうして今、

 あなたの言葉を、あなたが言えなかった言葉を、

 私は読みます」

「あなたが語れなかった痛みを、

 私は声にします」

 長い沈黙のあと、藍は台本を閉じた。

 舞台の照明がゆっくりと明るくなっていく。

 カーテンが閉じるその瞬間、彼は小さく、ひとつ、息を吐いた。

 その胸には、確かに“届いた”という実感があった。

 そして、客席の片隅で目元を拭っていた白藤が、席を立って帰ろうとしたその時――

 一人の年配の男性が、藍のもとへ静かに近づいてきた。

「……君が、瑞穂さんの息子さんかい?」

「はい……そうですが」

「わたしは、絹代さんの昔の知り合いだ。

 ……まだ、話していないことがある」

 藍の心が、ふたたび“声”に向かって動き始めた。


(第七章 完)


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