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第八章 記録を超えたその先に

 舞台を降りたあとも、藍の胸は静かに波打っていた。

 まるで自分の身体の中に、まだ語り切れなかった声が残っているような――そんな余韻。

 ロビーに戻ると、絵美里が拍子抜けしたような顔で立っていた。

 その手には、予備として準備していたパンフレットが一束。

「……全部、なくなったわよ。入口のやつも、ロビーのも」

「ほんと?」

「うん。“読みたい”って思った人が、それだけいたってこと」

 いつも冷静沈着な彼女が、ほんの少しだけ声を弾ませて言ったその様子に、

 藍はようやく、安心して小さく笑うことができた。

 だが――その直後、声をかけてきた男の存在が、全ての空気を一変させた。

「……絹代さんの、知り合いだって?」

 藍の問いに、男はゆっくりと頷いた。

 背筋を伸ばした初老の男性。眼鏡の奥の目が、何かをずっと観察しているように静かに光っている。

「彼女と最後に会ったのは……もう二十年近く前だ。

 旧図書館で、彼女が“何かを託したい”と言って、私にある箱を渡してきた」

「箱……?」

「中には、日記帳と、古いカセットテープ、そして一通の手紙が入っていた。

 彼女はこう言った――“私が死んだあと、孫が自分のルーツを探しに来たなら、それを渡してほしい”と」

 藍は言葉を失った。

「……そんな、まさか……」

「おかしな話だと思うだろう? だが、彼女はそれくらい先のことを、ずっと考えていたんだ」

 男は、茶色の革カバンを開き、丁寧に包まれた木箱を取り出した。

 藍はその箱を手に取ると、指先が自然と震えた。重みはさほどないのに、呼吸が浅くなる。

「いま、開けても?」

「もちろんだ。君のために預かっていたんだから」

 藍は、ゆっくりと紐を解いた。

 箱の中には、小さな日記帳が数冊、カセットテープ、そして封筒。

 封筒には、丁寧な文字でこう書かれていた。

「藍へ」

 震える指で開封し、便箋を広げる。

 そこに綴られていたのは、絹代の“未来へ宛てた言葉”だった。

「藍へ。

 この手紙を読むあなたが、私の本当の孫であるなら、

 私はようやく、言葉を残すことができます」

「私は“母であること”に失敗しました。

 娘に何も語れず、背を向け、名を捨てたこと――

 けれど、孫であるあなたが、私を“知ろう”としてくれたのなら、

 それだけで、私は救われる気がします」

「記録は残せても、“生きた気持ち”は残せない。

 けれど、あなたが“言葉を受け止めてくれる”なら、それはきっと、

 誰にも語れなかった私の人生そのものになるのでしょう」

 藍の手が、静かに膝の上で固まった。

 もう涙は出なかった。ただ、胸の奥に何かが確かに届いたのを感じていた。

 カセットテープを取り出し、玲希に頼んで音源データ化してもらうと、

 そこには、ゆっくりとした女性の声が残されていた。

《もしも、この声を聴いているあなたが“藍”なら。

 ありがとう。生まれてきてくれて。……私は、それだけが、本当に、誇りです》

 スピーカーから流れるその言葉を、文化部のメンバー全員が沈黙のまま聴いていた。

 早羅は、静かに目を閉じ、絵美里は珍しく涙を隠すように席を立ち、

 結彩は、目にいっぱいの涙を溜めながら、小さく呟いた。

「……これ、全部、台本にしよう。

“次の世代”に、語りつがれる言葉として。

 今度こそ、本当に、“記録”じゃなくて“生きてる声”として残すんだよ」

 藍は、深く頷いた。

 そうだ――これは終わりじゃない。

 遺された言葉に“灯”をともして、

 次に渡す。

 その“声”が、誰かの“自分を語る言葉”になるために。


(第八章 完)


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