舞台を降りたあとも、藍の胸は静かに波打っていた。
まるで自分の身体の中に、まだ語り切れなかった声が残っているような――そんな余韻。
ロビーに戻ると、絵美里が拍子抜けしたような顔で立っていた。
その手には、予備として準備していたパンフレットが一束。
「……全部、なくなったわよ。入口のやつも、ロビーのも」
「ほんと?」
「うん。“読みたい”って思った人が、それだけいたってこと」
いつも冷静沈着な彼女が、ほんの少しだけ声を弾ませて言ったその様子に、
藍はようやく、安心して小さく笑うことができた。
だが――その直後、声をかけてきた男の存在が、全ての空気を一変させた。
「……絹代さんの、知り合いだって?」
藍の問いに、男はゆっくりと頷いた。
背筋を伸ばした初老の男性。眼鏡の奥の目が、何かをずっと観察しているように静かに光っている。
「彼女と最後に会ったのは……もう二十年近く前だ。
旧図書館で、彼女が“何かを託したい”と言って、私にある箱を渡してきた」
「箱……?」
「中には、日記帳と、古いカセットテープ、そして一通の手紙が入っていた。
彼女はこう言った――“私が死んだあと、孫が自分のルーツを探しに来たなら、それを渡してほしい”と」
藍は言葉を失った。
「……そんな、まさか……」
「おかしな話だと思うだろう? だが、彼女はそれくらい先のことを、ずっと考えていたんだ」
男は、茶色の革カバンを開き、丁寧に包まれた木箱を取り出した。
藍はその箱を手に取ると、指先が自然と震えた。重みはさほどないのに、呼吸が浅くなる。
「いま、開けても?」
「もちろんだ。君のために預かっていたんだから」
藍は、ゆっくりと紐を解いた。
箱の中には、小さな日記帳が数冊、カセットテープ、そして封筒。
封筒には、丁寧な文字でこう書かれていた。
「藍へ」
震える指で開封し、便箋を広げる。
そこに綴られていたのは、絹代の“未来へ宛てた言葉”だった。
「藍へ。
この手紙を読むあなたが、私の本当の孫であるなら、
私はようやく、言葉を残すことができます」
「私は“母であること”に失敗しました。
娘に何も語れず、背を向け、名を捨てたこと――
けれど、孫であるあなたが、私を“知ろう”としてくれたのなら、
それだけで、私は救われる気がします」
「記録は残せても、“生きた気持ち”は残せない。
けれど、あなたが“言葉を受け止めてくれる”なら、それはきっと、
誰にも語れなかった私の人生そのものになるのでしょう」
藍の手が、静かに膝の上で固まった。
もう涙は出なかった。ただ、胸の奥に何かが確かに届いたのを感じていた。
カセットテープを取り出し、玲希に頼んで音源データ化してもらうと、
そこには、ゆっくりとした女性の声が残されていた。
《もしも、この声を聴いているあなたが“藍”なら。
ありがとう。生まれてきてくれて。……私は、それだけが、本当に、誇りです》
スピーカーから流れるその言葉を、文化部のメンバー全員が沈黙のまま聴いていた。
早羅は、静かに目を閉じ、絵美里は珍しく涙を隠すように席を立ち、
結彩は、目にいっぱいの涙を溜めながら、小さく呟いた。
「……これ、全部、台本にしよう。
“次の世代”に、語りつがれる言葉として。
今度こそ、本当に、“記録”じゃなくて“生きてる声”として残すんだよ」
藍は、深く頷いた。
そうだ――これは終わりじゃない。
遺された言葉に“灯”をともして、
次に渡す。
その“声”が、誰かの“自分を語る言葉”になるために。
(第八章 完)