「じゃあ、タイトルは?」
放課後の文芸室、ホワイトボードの前に立った結彩が、くるりとマーカーを回しながら問いかけた。
机の上には、絹代の手紙、瑞穂の日記、朗読会の台本、そして音源化されたカセットテープのスクリプトが並んでいる。
「“記録”じゃない、“記憶の演劇”っていうなら……どんな名前がいい?」
全員がしばらく黙った。
ペンの先でホワイトボードに円を描きながら、結彩はぽつりと言った。
「……“空白”って、消せるって意味じゃない。
でも、“まだ名前のない物語”に名前をつけるってことは、その空白にちゃんと輪郭を与えるってことなんだと思う」
玲希がソファに寝転がりながら、ポテトチップスをつまむ手を止めた。
「“空白に名前を”って、タイトルそのまんまでも成立するんじゃね?」
「いや、もう一段階、踏み込みたい」
藍の声が静かに響いた。
「空白、記録されなかったこと、語られなかったこと。
でもそこに、“届いた声”がある。なら……“名前”じゃなく、“呼びかけ”にしよう」
ホワイトボードに、藍が自ら文字を記す。
『あなたへ、名を呼ぶかわりに』
しん、と空気が静まった。
華枝がそっと目を細めて言った。
「……それ、“読む側”の台詞でもあるね。
舞台の上にいるのは“遺された人”たちだけど、その向こうに、“語れなかった人”たちがちゃんと“いる”って伝わる」
絵美里は腕を組んだまま、静かに頷いた。
「副題に、“記録されなかった家族の対話”をつけましょう。
……これなら、“演劇”とも“朗読”とも違う、“新しい形式”として通る」
「じゃあさ、次の文化部発表会、これで出そうよ」
早羅がふいに手を挙げて言った。
「お清めグッズもバージョンアップしたし、照明もちゃんと“記憶の層”っぽく演出できる。
それに、今度は“語り部を増やす”ことで、“他の誰かの声”も入れられるかもしれない」
玲希が寝転んだまま指を挙げた。
「それってつまり、“誰の物語でもある”ってやつだな。
藍の家族の話が起点だけど、同じように声を持てなかった人たちが、自分の言葉に出会えるように」
「……そうなったら、すごく嬉しい」
藍は、そう呟きながら、机の上の日記のコピーをそっと撫でた。
母の言葉、祖母の声、そして自分の想い。
それらは、もう“過去”ではない。
今ここに“居る”誰かの心とつながり、共鳴する“現在”になった。
それを伝えるための物語。
それを届けるための声。
それを聞くために、生まれてきた言葉。
彼はふたたび、筆を取った。
「これは、誰かを記録する物語じゃない。
……誰かの“存在を証明する”物語なんだ」
そう言って藍は、白紙の台本の最初のページに、ゆっくりと書いた。
《第一章 あなたへ、名を呼ぶかわりに》
その文字は、もう迷っていなかった。
母から、祖母から、仲間たちから受け継いだ言葉の火が、いま確かに灯っていた。
(第九章 完)