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第九章 空白の物語に名前をつけて

「じゃあ、タイトルは?」

 放課後の文芸室、ホワイトボードの前に立った結彩が、くるりとマーカーを回しながら問いかけた。

 机の上には、絹代の手紙、瑞穂の日記、朗読会の台本、そして音源化されたカセットテープのスクリプトが並んでいる。

「“記録”じゃない、“記憶の演劇”っていうなら……どんな名前がいい?」

 全員がしばらく黙った。

 ペンの先でホワイトボードに円を描きながら、結彩はぽつりと言った。

「……“空白”って、消せるって意味じゃない。

 でも、“まだ名前のない物語”に名前をつけるってことは、その空白にちゃんと輪郭を与えるってことなんだと思う」

 玲希がソファに寝転がりながら、ポテトチップスをつまむ手を止めた。

「“空白に名前を”って、タイトルそのまんまでも成立するんじゃね?」

「いや、もう一段階、踏み込みたい」

 藍の声が静かに響いた。

「空白、記録されなかったこと、語られなかったこと。

 でもそこに、“届いた声”がある。なら……“名前”じゃなく、“呼びかけ”にしよう」

 ホワイトボードに、藍が自ら文字を記す。

『あなたへ、名を呼ぶかわりに』

 しん、と空気が静まった。

 華枝がそっと目を細めて言った。

「……それ、“読む側”の台詞でもあるね。

 舞台の上にいるのは“遺された人”たちだけど、その向こうに、“語れなかった人”たちがちゃんと“いる”って伝わる」

 絵美里は腕を組んだまま、静かに頷いた。

「副題に、“記録されなかった家族の対話”をつけましょう。

 ……これなら、“演劇”とも“朗読”とも違う、“新しい形式”として通る」

「じゃあさ、次の文化部発表会、これで出そうよ」

 早羅がふいに手を挙げて言った。

「お清めグッズもバージョンアップしたし、照明もちゃんと“記憶の層”っぽく演出できる。

 それに、今度は“語り部を増やす”ことで、“他の誰かの声”も入れられるかもしれない」

 玲希が寝転んだまま指を挙げた。

「それってつまり、“誰の物語でもある”ってやつだな。

 藍の家族の話が起点だけど、同じように声を持てなかった人たちが、自分の言葉に出会えるように」

「……そうなったら、すごく嬉しい」

 藍は、そう呟きながら、机の上の日記のコピーをそっと撫でた。

 母の言葉、祖母の声、そして自分の想い。

 それらは、もう“過去”ではない。

 今ここに“居る”誰かの心とつながり、共鳴する“現在”になった。

 それを伝えるための物語。

 それを届けるための声。

 それを聞くために、生まれてきた言葉。

 彼はふたたび、筆を取った。

「これは、誰かを記録する物語じゃない。

 ……誰かの“存在を証明する”物語なんだ」

 そう言って藍は、白紙の台本の最初のページに、ゆっくりと書いた。

《第一章 あなたへ、名を呼ぶかわりに》

 その文字は、もう迷っていなかった。

 母から、祖母から、仲間たちから受け継いだ言葉の火が、いま確かに灯っていた。


(第九章 完)


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