リハーサルが終わり、ステージに誰もいなくなった夜。
藍は一人、客席に座っていた。
舞台上の照明は落とされ、天井から差す非常灯の薄明かりが、板張りの床をやわらかく照らしている。
今日の練習では、日記の断片をもとにした“新構成”の第一幕が初めて通しで演じられた。
タイトルは――《あなたへ、名を呼ぶかわりに》。
その一文を読み上げる瞬間、喉の奥が詰まった。
物語の“出発点”が、自分の喪失だったことを、あらためて知ったからだ。
そして今、自分たちは“その声”を“言葉にして舞台に乗せて”いる。
それは――祈りだった。
記録ではない。
誰かに正確な真実を伝えるための資料でもなければ、歴史的な意義を持つ証拠でもない。
けれど、それでも確かに“誰かの生”を、誰かの“いたという証”を、ここに灯そうとしている。
「祈りなんだよな……」
藍がぽつりと漏らした言葉が、誰もいない劇場に小さく響いた。
その声に返事をするように、後方の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、絵美里だった。
制服の上にカーディガンを羽織り、手には何枚かの印刷資料を持っている。
「まだいたのね」
「うん。……少し、舞台見てた」
「私も。……“記録に残らなかった人の声をどう演じるか”って、ずっと考えてた」
彼女は隣の席に座り、プリントを渡してきた。
それは、“語り部のセリフ”案の修正原稿だった。
《ここにいるのは、もう誰でもない人たちの声です。
でも、誰でもなかった彼らを、“誰かだった”と認めるために、
今、私たちはここで“物語”を語ります》
藍は、その文章を見つめたまま、小さく頷いた。
「ねえ、藍。……あなた、今も“目立つのは苦手”って思ってる?」
唐突な問いかけに、藍は少し笑って言った。
「うん。……でも、誰かが“語られずに終わった声”を置いていったなら、
僕はそれを見つけて“読もう”とは、思うようになった」
「読むだけで、終わる?」
「……たぶん、それだけじゃ足りない。
“語る”って、責任があるんだと思う。
語った以上は、“存在したこと”を誰かに残す。
それが記録じゃなくても、“祈り”だったとしても」
しばらく、沈黙。
絵美里が、珍しく声を低くして言った。
「私もさ、ずっと“成果”とか“結果”とか、そればっかりだった。
でも、今回の台本読んでて、
“誰かが言えなかった言葉を代わりに言う”って、
本当はすごく、怖いことだってわかった」
藍は、そっと彼女の手に重ねるように、紙を持ち直した。
「でも、君が言ったんだよ。
“語られなかった声は、舞台にすることでようやく届く”って」
「……それ、ちゃんと届いたと思う?」
藍は、静かに頷いた。
「届いてないなら、まだ語る。
届いたなら、それをまた別の人に手渡す。
――それが、きっと“記録にならない祈り”の役割だと思う」
絵美里は、目を伏せてから小さく笑った。
「……あなた、本当に変わったわね」
「君たちが、変えてくれたんだよ」
ふたりはそのまま、無人の舞台を見つめていた。
そこには、誰もいないはずなのに、確かに“言葉の痕跡”が残っているような気がした。
やがて絵美里が立ち上がり、言った。
「じゃあ、明日の発表、完璧に決めましょう。
……“声が届く舞台”って、証明してみせましょう」
「うん」
藍も立ち上がった。
その手には、台本と、母からの手紙、そして絹代のテープの写し。
祈りと呼ぶにはあまりに静かで、
記録と呼ぶにはあまりに揺れていた言葉たち。
だがそれこそが、いま彼の“名前”になっていた。
(第十章 完)