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第十章 記録と呼べない、ただの祈り

 リハーサルが終わり、ステージに誰もいなくなった夜。

 藍は一人、客席に座っていた。

 舞台上の照明は落とされ、天井から差す非常灯の薄明かりが、板張りの床をやわらかく照らしている。

 今日の練習では、日記の断片をもとにした“新構成”の第一幕が初めて通しで演じられた。

 タイトルは――《あなたへ、名を呼ぶかわりに》。

 その一文を読み上げる瞬間、喉の奥が詰まった。

 物語の“出発点”が、自分の喪失だったことを、あらためて知ったからだ。

 そして今、自分たちは“その声”を“言葉にして舞台に乗せて”いる。

 それは――祈りだった。

 記録ではない。

 誰かに正確な真実を伝えるための資料でもなければ、歴史的な意義を持つ証拠でもない。

 けれど、それでも確かに“誰かの生”を、誰かの“いたという証”を、ここに灯そうとしている。

「祈りなんだよな……」

 藍がぽつりと漏らした言葉が、誰もいない劇場に小さく響いた。

 その声に返事をするように、後方の扉が静かに開いた。

 入ってきたのは、絵美里だった。

 制服の上にカーディガンを羽織り、手には何枚かの印刷資料を持っている。

「まだいたのね」

「うん。……少し、舞台見てた」

「私も。……“記録に残らなかった人の声をどう演じるか”って、ずっと考えてた」

 彼女は隣の席に座り、プリントを渡してきた。

 それは、“語り部のセリフ”案の修正原稿だった。

《ここにいるのは、もう誰でもない人たちの声です。

 でも、誰でもなかった彼らを、“誰かだった”と認めるために、

 今、私たちはここで“物語”を語ります》

 藍は、その文章を見つめたまま、小さく頷いた。

「ねえ、藍。……あなた、今も“目立つのは苦手”って思ってる?」

 唐突な問いかけに、藍は少し笑って言った。

「うん。……でも、誰かが“語られずに終わった声”を置いていったなら、

 僕はそれを見つけて“読もう”とは、思うようになった」

「読むだけで、終わる?」

「……たぶん、それだけじゃ足りない。

 “語る”って、責任があるんだと思う。

 語った以上は、“存在したこと”を誰かに残す。

 それが記録じゃなくても、“祈り”だったとしても」

 しばらく、沈黙。

 絵美里が、珍しく声を低くして言った。

「私もさ、ずっと“成果”とか“結果”とか、そればっかりだった。

 でも、今回の台本読んでて、

 “誰かが言えなかった言葉を代わりに言う”って、

 本当はすごく、怖いことだってわかった」

 藍は、そっと彼女の手に重ねるように、紙を持ち直した。

「でも、君が言ったんだよ。

 “語られなかった声は、舞台にすることでようやく届く”って」

「……それ、ちゃんと届いたと思う?」

 藍は、静かに頷いた。

「届いてないなら、まだ語る。

 届いたなら、それをまた別の人に手渡す。

 ――それが、きっと“記録にならない祈り”の役割だと思う」

 絵美里は、目を伏せてから小さく笑った。

「……あなた、本当に変わったわね」

「君たちが、変えてくれたんだよ」

 ふたりはそのまま、無人の舞台を見つめていた。

 そこには、誰もいないはずなのに、確かに“言葉の痕跡”が残っているような気がした。

 やがて絵美里が立ち上がり、言った。

「じゃあ、明日の発表、完璧に決めましょう。

 ……“声が届く舞台”って、証明してみせましょう」

「うん」

 藍も立ち上がった。

 その手には、台本と、母からの手紙、そして絹代のテープの写し。

 祈りと呼ぶにはあまりに静かで、

 記録と呼ぶにはあまりに揺れていた言葉たち。

 だがそれこそが、いま彼の“名前”になっていた。


(第十章 完)


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