朝の光が、会館のガラス窓に斜めに差し込んでいる。
本番の日――再演となる朗読公演『あなたへ、名を呼ぶかわりに』の幕が開くその日。
舞台裏では、藍が静かに台本の表紙を撫でていた。
開演直前のざわめきも、舞台袖の緊張も、今の彼にとっては“心地よい雑音”だった。
手には、母・瑞穂の最期の日記のページが一枚。
そこにはこう書かれていた。
《“名前”って、呼ばれるたびに自分を確認する手段だった。
でも、私が誰からも呼ばれなくなったとき、
私は私をどう保てばいいのか、わからなくなった》
「……だから、僕が呼ぶんだよ、母さん」
誰よりも小さな声で、誰にも聞こえないように、藍はそう呟いた。
開演数分前。
照明調整をしていた華枝が控室に飛び込んできた。
「藍、観客席に白藤さん来てたよ。それから――市の文化担当、三人くらい来てた」
「え、あの文化賞の審査の人?」
「そうそう。“実験的表現としての朗読劇”に分類されたらしいよ。
たぶん本気で表彰候補だって。……やばい、緊張してきた」
「大丈夫、全部“祈り”だから」
その一言に、華枝は吹き出して言った。
「なにそれ、宗教法人“藍の会”?」
「言い方!」
しかし、その冗談さえ、今の藍には“灯”だった。
笑える余裕のある場所に、自分が立っている――それが、誇らしかった。
客席が静まり、舞台が闇に沈む。
プロローグは、結彩の語り。
語られなかった家族の記録、遺された声、それを読み起こすという行為が、いかに勇気を要するものか。
やがて、舞台中央に藍が立つ。
彼の声は、マイクを通していないにも関わらず、劇場の隅々まで自然に届いていく。
「母は、誰にも“名前”を呼ばれないまま、
一人で日記に、手紙に、言葉を遺していきました」
「だから、今ここで、
私は“呼びます”」
「母の名前を。
そして、祖母の名前を。
彼女たちが“誰だったか”を、私は語ります」
背景に映し出されるスライドには、日記の抜粋と、旧図書館の写真、
そして最後に一枚――藍が自分で撮った、母の遺品の封筒の写真。
それは“証拠”ではなく、“想い”だった。
舞台は静かに幕を閉じる。
拍手は、数秒遅れて起きた。
それは、観客たちが“言葉の重さ”に思わず呼吸を止めていたからだ。
そして、まばらだった拍手が、やがて全体へと広がり、大きな波のようになっていった。
舞台裏。
全てが終わったあと、藍は控室に戻らず、ひとり客席の最後列に立っていた。
白藤がそっと近づき、言った。
「……あなたは、よく“声”をつないでくれました。
誰かが語らなかったものを、誰かが語ることでしか伝えられないものが、確かにある」
藍は振り返らず、ただ前を見ながら言った。
「ありがとうございます。……でも、僕がやったのは、
ただ“名前を呼んだ”だけなんです」
「それが、何よりも尊いことです」
白藤が去ったあと、藍はポケットから、日記の最終ページを取り出した。
そこにはこう書かれていた。
《いつか、あなたが私の名前を呼んでくれるなら、
私はようやく、自分の名前で死ねる気がします。
瑞穂より》
藍は、封をしていないそのページをそっと畳み、
最後にひとこと、空席に向かって、声を届けた。
「……母さん、瑞穂」
たった一度、ただ一言。
その“名前”は、記録には残らない。
けれど、確かにここにあった。
誰かがその名を呼び、想いを繋いだことで、
“語られなかった物語”が、ようやく灯された。
(第十一章 完)