目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第十一章 名前を呼ぶ人

 朝の光が、会館のガラス窓に斜めに差し込んでいる。

 本番の日――再演となる朗読公演『あなたへ、名を呼ぶかわりに』の幕が開くその日。

 舞台裏では、藍が静かに台本の表紙を撫でていた。

 開演直前のざわめきも、舞台袖の緊張も、今の彼にとっては“心地よい雑音”だった。

 手には、母・瑞穂の最期の日記のページが一枚。

 そこにはこう書かれていた。

《“名前”って、呼ばれるたびに自分を確認する手段だった。

 でも、私が誰からも呼ばれなくなったとき、

 私は私をどう保てばいいのか、わからなくなった》

「……だから、僕が呼ぶんだよ、母さん」

 誰よりも小さな声で、誰にも聞こえないように、藍はそう呟いた。


 開演数分前。

 照明調整をしていた華枝が控室に飛び込んできた。

「藍、観客席に白藤さん来てたよ。それから――市の文化担当、三人くらい来てた」

「え、あの文化賞の審査の人?」

「そうそう。“実験的表現としての朗読劇”に分類されたらしいよ。

 たぶん本気で表彰候補だって。……やばい、緊張してきた」

「大丈夫、全部“祈り”だから」

 その一言に、華枝は吹き出して言った。

「なにそれ、宗教法人“藍の会”?」

「言い方!」

 しかし、その冗談さえ、今の藍には“灯”だった。

 笑える余裕のある場所に、自分が立っている――それが、誇らしかった。


 客席が静まり、舞台が闇に沈む。

 プロローグは、結彩の語り。

 語られなかった家族の記録、遺された声、それを読み起こすという行為が、いかに勇気を要するものか。

 やがて、舞台中央に藍が立つ。

 彼の声は、マイクを通していないにも関わらず、劇場の隅々まで自然に届いていく。

「母は、誰にも“名前”を呼ばれないまま、

 一人で日記に、手紙に、言葉を遺していきました」

「だから、今ここで、

 私は“呼びます”」

「母の名前を。

 そして、祖母の名前を。

 彼女たちが“誰だったか”を、私は語ります」

 背景に映し出されるスライドには、日記の抜粋と、旧図書館の写真、

 そして最後に一枚――藍が自分で撮った、母の遺品の封筒の写真。

 それは“証拠”ではなく、“想い”だった。

 舞台は静かに幕を閉じる。

 拍手は、数秒遅れて起きた。

 それは、観客たちが“言葉の重さ”に思わず呼吸を止めていたからだ。

 そして、まばらだった拍手が、やがて全体へと広がり、大きな波のようになっていった。


 舞台裏。

 全てが終わったあと、藍は控室に戻らず、ひとり客席の最後列に立っていた。

 白藤がそっと近づき、言った。

「……あなたは、よく“声”をつないでくれました。

 誰かが語らなかったものを、誰かが語ることでしか伝えられないものが、確かにある」

 藍は振り返らず、ただ前を見ながら言った。

「ありがとうございます。……でも、僕がやったのは、

 ただ“名前を呼んだ”だけなんです」

「それが、何よりも尊いことです」

 白藤が去ったあと、藍はポケットから、日記の最終ページを取り出した。

 そこにはこう書かれていた。

《いつか、あなたが私の名前を呼んでくれるなら、

 私はようやく、自分の名前で死ねる気がします。

 瑞穂より》

 藍は、封をしていないそのページをそっと畳み、

 最後にひとこと、空席に向かって、声を届けた。

「……母さん、瑞穂」

 たった一度、ただ一言。

 その“名前”は、記録には残らない。

 けれど、確かにここにあった。

 誰かがその名を呼び、想いを繋いだことで、

“語られなかった物語”が、ようやく灯された。


(第十一章 完)


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?