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第十二章 誰かのための言葉ではなく

「じゃあさ、これからどうするの?」

 朗読公演から数日後、文芸室で机に突っ伏したままの玲希が、そう問いかけた。

 手元には、表彰状の写し。

『地域文化奨励賞』――市の文化振興課が主催するこの賞に、藍たちの朗読劇は選ばれた。

 けれど、藍はその紙を一度も額に入れようとはしなかった。

 ただ、日記の写しと一緒に封筒にしまってある。

「どうするって……?」

「だってさ。“誰かのために語った言葉”はもう届けたわけだろ?

 お前、これからも“誰かの物語”を拾っていくのか?」

 玲希のその声には、少しの茶化しと、少しの真剣さが入り混じっていた。

 藍は答える代わりに、カバンから小さなノートを取り出した。

 それは母と祖母の記録を経たあと、自分で書き始めた“まっさらな言葉”のノートだった。

 表紙には、こう記されていた。

《藍が“わたし”として書くためのノート》

 それはもう、誰かの代理ではない。

 誰かの声を演じるのでもない。

《わたしは、わたしのために言葉を書く。

 わたしが生きたことを、わたしの言葉で証明するために》

 玲希がノートを覗き込んで、肩をすくめた。

「おー、もう完全に“語り手病”だな、それ。

 次の文化祭も、またお前の自伝朗読か?」

「いや、それは……やめとく」

「え、やめるの?」

「うん。今度は、みんなで書いた“フィクション”がやりたい。

 でも、その中には、ちゃんと“自分の声”を忍ばせたい」

 それは、たぶん“誰かのための物語”ではなく――

“誰かになりきらずとも、自分を伝える方法”をようやく見つけたということだった。

 その時、ドアが開いて結彩が入ってきた。

 手には、封筒がひとつ。

 中から取り出されたのは、見慣れない手書きの便箋。

「これ、文化祭のときに公演観てた中学生の子から来たの。

“うちの家庭も、ちょっと複雑で”って。……でも、“初めて誰かの話を聴いた気がした”って書いてある」

 藍は黙って便箋を読んだあと、机にそっと置いた。

「名前は?」

「書いてなかった。“言いたくない”って。……でも、“また何か観たい”って書いてある」

「じゃあ、またやらなきゃね」

「“言葉を届ける”って、やっぱり、誰かのためじゃなくて、“自分が語ることで、自分が癒える”ってことだから」

 玲希が伸びをしながら言った。

「俺はさ、結局“演じること”じゃなくて“伝えること”なんだって気づいた。

 演劇じゃなくても、朗読でも、エッセイでも、“その人がそこにいた”って思えるなら、それでいい」

 絵美里がその言葉に頷きながら、最後に言った。

「じゃあ、“語られなかった人の声”は、もう過去になったってことね。

 次は――“まだ語られていない人の声”を、今ここから拾っていく」

 全員がそれに、言葉ではなく、沈黙で同意した。

 藍は自分のノートを開き、一行目に、こう記した。

《これは、誰かのためではない。

 けれど、いつか誰かに届くかもしれない、わたしの言葉》

 そうやって、彼の物語は“誰かを語るため”の舞台から、

“自分を生きるため”の物語へと、静かに幕を変えていった。


(第十二章 完)


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