それは谷の中でも、もっとも静かなエリアだった。
木々はまばらで、足元は苔むして柔らかい。空は広く、どこからか川のせせらぎのような音がかすかに聞こえていた。
「……音がする。川?」
凪が立ち止まり、耳をすませる。まなみも頷いた。
「うん、たぶん。でも……近づいてる。流れてる音じゃなくて、何かが来る音」
その言葉を裏付けるように、遠くの木々がざわりと揺れた。そして次の瞬間、駆けてきたのは――
風の獣だった。
それは風のように形を持たず、けれど間違いなく「そこにいる」と分かる存在。毛皮ではなく霞をまとい、目だけが光を帯びて浮かんでいた。
「――来るぞ!」
えいじが咄嗟に皆を後ろに下げる。だが、風の獣は攻撃してくるわけでもなく、彼らの周囲をぐるぐると巡っていた。
「なにこれ……試されてるの?」
ゆうきが腰を落とし、構えるように身を引き締めたが、そのとき、悠誠が一歩前に出た。
「まって。これ……“頼ること”を、試してるのかもしれない」
彼はポーチの中から、小さな笛を取り出す。それは、昔、小さな村で“助けを呼ぶ”ために使われていたものだった。
「でも、それって……誰かに“助けて”って叫ぶってことよ? 本当に?」
凪が驚き交じりに問うと、悠誠は静かに頷いた。
「うん。ぼく、いま怖い。こいつが敵なのかどうか分からないし、正直、自分じゃ無理だと思う。でも……言うよ。“助けて”って」
そう言って、彼は迷いなく笛を吹いた。
澄んだ音が、谷に響いた。
すると――空から一筋の光が差し込み、風の獣の体にすうっと触れた。
霞のような体がふわりと持ち上がり、やがて音もなく空へと帰っていった。
えいじが、ゆっくりと呼吸を整えながら言った。
「……あれは、たぶん“頼る”ことを恐れている者には越えられない仕掛けだったんだ」
「“一人でやろう”って思ってたら、吹けなかったと思う」と、かなこがぽそっと呟く。
「……でもね。頼っていいって言ってもらえるのも、嬉しいんだよ」
まなみがそっと、手を差し出した。さとしがその手を見つめ、ノートに書きながらぽつり。
「頼るって……甘えることじゃなくて、繋がることなんだね」
その言葉に、誰もがうなずいた。
そして地面に埋もれていた石碑が、ひとりでに風を受けて顔を出す。
【第五の誓い】
“誰かの力を頼ることを恥じないこと”
強さとは、一人で立つことだけではない。
風の音は、やさしく吹き抜けていく。
それは、誰かの背中にそっと手を添えるような、そんな風だった。