読者の皆様の中には、私がこれだけの心霊体験を経験しているから、ノンフィクションの怪談を主体にして書けば良いと考えている読者がいるかもしれません。
この作品を雑文にした理由が幾つかありました。
2~3年前から続いている私たち家族の不運に際して、私が経営している町工場に目を向ければ、顧客からの下請けイジメがあったり、今の社会情勢によって受注が激減して経営難に陥るなど、色々なリアルなことが密接に関わり合っています。
でも、息子が学校に行けなくなるほどの病気や、母が倒れて要介護5になったり、私が大きな手術をしたのも偶然とは言え、立て続けすぎて訳が分かりませんし…。
だからこそ、霊障とは限らずに、私たちの家族事情や、その現状をリアルに書きながら、私たち家族の身に何が起こったのかを細かに綴らないと、私たち家族が体験した一連のできごとに行き着けないのです。
その不運の連続を産みだした産物、…いや…、不運の連鎖によって自然に産み出された『精製物』として、色々な霊障が起きたのが今の実情じゃないかと思っていまして…。
結局は『悪い事が重なった複合要因』なのですが、冷静に考えても、ごく普通の一般家庭にて、不運と霊障が立て続けにあるのが異様ですから。
あと、話が怪談オンリーになってしまうと、この作品の幅が利かなくなってしまう懸念があって、最初から雑文として書くことを決めていました。
怪談オンリーにしたら、怖い話ばかりを書かなきゃ駄目だし、それは断固として却下ですからね。
私は基本的に怖いことは嫌いです。
悪いモノは払いたいわけですから、ここで『自分で祓う手段やプロセスも含めて書く』ことが、この作品の特色でありまして…。
それに、怪談を前面に押し出してしまうと、ネタが無くなったときに困ります。
その手の人たちが、よくやっているかの如く、心霊スポットにノコノコと出掛けて、お約束で霊障を喰らって家に戻るなんて、本当に勘弁してください。
私としては、霊なんて信じていなくて霊体験を笑い飛ばせる人や、逆に、この手の類が好きすぎて心霊スポットに好んで行くような人に関しては、それを真っ向から否定せず、個々の価値観として認めるつもりです。
しかしながら、私は中途半端に霊感がある影響から、心霊スポットに喜んでいくような真似は絶対に無理です。
普通は見えない人のほうが多いと思うので、大したことがないと思うかも知れませんが、怨霊に対して、ネタとして面白がっていると、後になって大きなしっぺ返しを受けることがありますから。
それに、全く見えない人が突然に体感する霊障に関しては、見える人からすれば、即倒するぐらい強かったケースが多々あるようでして…。
仮に、私が心霊スポットに行ったとしても、その場で祓える力が全くありませんし、このあたりは一般人と全く同じです。
だからこそ、私が仮に、その手の物好きが好むようなエンターテインメントに合わせたネタで勝負したとしても作品が瓦解する可能性が高いでしょう。
私が心霊スポットに向かったとして、ターゲットになるような場所に行く前から、何らかの霊障を受けたとすれば、それ以上の霊障を避ける為に、その場から立ち去るだけのオチになるからです。
そんなオチでは、その手の人達にとって見れば、ネタとして全く成り立たないでしょうから、作品は中途半端な仕上がりになりますし、その上、碌でもないモノが私に憑いてきて、家族を巻き込んだら、たまったものじゃありません。
私は霊と対話できませんし、仮に何かに取り憑かれても、何を訴えているのかが分かりませんから、自助努力で除霊をするのは時間と労力を要して困難を極めます。
どこかのYouTuberのように、お金を沢山持っていて、有名な霊能力者に除霊をさせることをネタにしている輩も散見していますが、財力もコネもない私には絶対に無理ですし、そこまでしてまで、この作品を書きたくありません。
それに、何かに取り憑かれた場合、神仏をその場に呼んで助けを頂くような力が私にはありませんから、私のほうから神仏がいる寺社に行って、悪いモノがいれば祓って頂くように、そして、悪い運気を良い運気に変えて頂くように、常にお願いをするのが精一杯でして…。
この作品は『障りの原因を自分たちの手で突きとめて、自分たちで悪いモノを祓う』までの過程を書くことが、この作品のコンプセクトになっています。
最初に切り出した『からわけ』、次に書いた『呪いの人形』、そして『30年間放置したパワーストーン』でも一貫していますが、そのコンプセクトで突き進むつもりです。
もしも、霊感をお持ちでない読者の皆様が、酷い心霊体験をして、何時までも障っているようなら、霊能力者や変な宗教に頼らなくても、真っ当な神社やお寺に正しい方法で参拝するだけで、祓えるケースが多々あります。
真っ当な神社仏閣に参拝することは悪いことではありません。
カルト宗教に足を突っ込まず、変な霊能力者にお金を注ぎ込むこともなく、お守りや、おふだを買ったとしても、お賽銭と合わせて、とても少ないお金でコトが済みますし、経済的にもお得です。
霊を見たり感じたりしなくても、何か悪いモノが憑いているような不安があるなら、午前中のうちに大きな神社やお寺に行って、本殿や本尊に向かって普段よりも長く手を合わせてみるのも良いでしょう。
『何か悪いモノが私達に憑いていたら、はね除けて下さい。不運が続くようなら、どうか良いお導きを…。』
そこで願を掛けて、良い事が起これば、願を掛けた寺社にお礼の参拝をすると良いかと思います。
でも、そういう悪いモノが憑いている時に限って、自分に余裕がないコトが多いですし、自分のコトばかりを願ってしまうのが、人間のサガだったり…。
そして、良い事が起こったら『ありがとうございます』と、お礼を素直に言うのは良いことですし、私の場合、よく行く寺社ならば、『何時もありがとうございます。』と、真っ先にお礼を念じてから、願をかけることにしています。
おっと、この話は、後の与太話で詳しく書くとして、本題に戻りましょう。
本来なら、私が書いた一連の不運と霊障は、本格的な霊媒師を呼ぶレベルかも知れませんが、私は微弱な霊感のお陰で、自分に悪いモノが憑いているか、憑いていないか…ぐらいの判別ができますので、それを利用しながら、上手く対処しているわけでして…。
話は長くなりましたが、帰結的に、この作品のコンプセクトとして3つの事を心がけています。
『自分で霊障の原因を突き止める努力をする』
『自分で極力、祓うように努力をする』
『霊障の話だけで終わらせず、自力で祓って、その後がどうなったのかまで書く』
私は、単なる怪談話や怪奇現象の話で、この作品を終わらせたくありませんから、自己完結を心がけている訳でして…。
これが、この作品を単なる怪談話にしない理由なのです。