「大事になったな」
事件の発端から一週間。そして、犯人が“予告”した試合まで、残り一週間。
遠山は都内のオフィスで、ある大手生命保険会社の営業部長と向き合っていた。言葉の端々からは、スポンサーという立場を越えた、リーグへの深い関与がにじんでいた。
「まったくです。冗談じゃありません」
「とはいえ、被害が拡大していないのは何よりだな。今のところは、な」
その言葉に、遠山はうなずいた。あの騒動の直後、今度は羽田の山名選手が意識を失ったという報道が流れた。新潟の神崎選手の一件と照らし合わせれば、関連性を疑うのは当然だった。
だが、真相はやや拍子抜けするものだった。
「羽田側にも注意を促しました。実際は、山名選手が、ホテルで外国人観光客とぶつかっただけでした。打ちどころが悪く、一時的に意識を失ったようですが、命に別状はありません」
「しかし、張り込んでいた記者に見つかった。その結果がこの騒ぎだ。まったく、時代だな」
「ええ。今は“匂い”だけで物語が膨らむ時代ですから」
「皮肉だな。しかし、この注目――君はどう見る?」
「注目、とは?」
「率直に言えば、今のWリーグは間違いなく“話題の中心”にいる。Bリーグ然り、世界的に見ればバスケットボールは巨大な市場だ。試合自体もそうだが、関連商品だってかなり売れている。だが日本では、どうしてもプロ野球やJリーグの後塵を拝してきた。だが今、この熱は大きくなってきている」
「おっしゃる通りです。現時点で、野球・サッカーに次ぐ第三の市場になった感触はあります」
「だがまだ“報道の習慣”を破るには至っていない。スポーツニュースで最初に流れるのは野球、その次がサッカーか相撲。そして、ようやくバスケかバレーボールだ。最近は、Vリーグの人気も増えてしまったしな。ところが今、テレビをつければ――」
営業部長はリモコンを手にし、事務所のテレビを点けた。ワイドショーがまさにWリーグの“事件”を特集していた。
「これが現実だ。日本で最も注目されるプロスポーツ。それが今のWリーグだ。どう思う?」
「確かに、異常な注目度です。ただし、私たちが意図した注目ではありません」
「意図した、とは?」
「本来の目的は、純粋に選手たちのプレイを楽しんでもらうこと。”バスケを通じて多彩な力を結集させ、元気・感動・勇気を届け、笑顔あふれる社会に貢献する”。それがこのリーグの理念です。今の状況は、むしろその本質を歪めてしまっている」
「……理想論だな」
「理想なしにスポーツは育ちません。理想があるからこそ、人はスポーツに希望を託すんです。逆に言えば、それを失えば、ファンの信頼も音を立てて崩れていく」
「ふん。きれいごとを言うには、恵まれた立場だな。その“理想”を掲げられるのも、誰かがその舞台を用意しているからだ。我々が出しているスポンサー料も、現場のセールスたちが泥水すすって稼いだ金だ」
「……それは否定しません」
「素直だな。そこは嫌いじゃない。……で、その上で聞こう。今週末の試合、どう動くつもりだ?」
「最終的な判断は、理事会や本部の上層部に委ねられます」
「その上層部が君の意見を重視するから聞いている。じゃなきゃ、君みたいな若造に時間を使わないよ」
「……私個人の考えとしては、犯人の要求に屈するべきではありません。予定通り、試合は実施すべきです。その上で、選手の安全を守るため、警備体制を全面的に強化します。警察に加えて、新たな警備会社とも契約を進めています。これまで支えてくれていたボランティアの方々には、今回はあえて外れていただく方針です」
「ふむ……まあ、正しいな」
「……はい」
「だが、それが俺の求めている答えだと思うか?」
「ベストとは申しません。ですが、現状においては、最も現実的な“ベター”です。犯人の動機も規模も不明な中で、安全策は不可欠です」
「模範解答だな。あまりに正論すぎて、少し笑えるよ」
遠山はわずかに眉をひそめた。
「……”やはり”、お気に召しませんか?」
「”やはり”、か。生意気だな。そして、真面目すぎる。もっと貪欲になれ。コンテンツとしての面白さを磨け。選手を守るのは当然だ。だが、それとは別に、この“チャンス”をどう活かすかを問うている」
「”チャンス”と言い切ってしまいますか。この事件を利用しろ、と?」
「違う。“無視するな”と言っている。世の中は今、このリーグに目を向けている。この数日間、我々は何億円もの広告効果を、タダで手に入れている。これは凄まじいことだぞ。聞いたところによると、各チームのSNSのフォロワーも拡大しているとか」
「……しかし、これはあくまで“事件の影響”による一時的な熱です。長期的には沈静化するでしょうし、この騒動を“活用”しようとする姿勢そのものが、炎上の火種になりかねません。ファンとの信頼を損なえば、すべてが台無しです」
「だからこそ、“信頼を守ったまま”、この関心をどう次に繋げるか。――それが、君の腕の見せ所ってやつじゃないのか?」
遠山は言葉を失ったまま、わずかに視線を落とした。
「誤解するなよ。私は君に全部押しつけたいわけじゃない。鬼じゃないからな」
営業部長の声色が少しだけ和らぐ。
「今、Wリーグの広報にうちから一人、出向しているのは知ってるか?」
「……月島さん、ですね」
「そうだ。元々セールスだし、コンテンツ作りのセンスは社内でもトップクラスだ。やや鼻につくところはあるが、優秀なことに変わりはない。あいつと組めば、君の“真面目”が、ちゃんと届く形になるかもしれない」
その目が、一瞬鋭くなった。
遠山は何も答えず、無意識にテレビ画面へと目を移す。画面には、ワイドショーの特集。テロップが踊っていた。
《“犯人の目的は? Wリーグ前代未聞の騒動、いよいよ今週末、決着の時——”》
月島。四十代。学生時代は名門校で男バスのエース。常に勝者の側にいた人間。
攻めの姿勢と、自信の強さは認める。ただ――“敗北を味わったことのない人間”は、脆い。
おそらく営業部長は、もう動き出している。月島と、既に何らかの青写真を描いている。今日ここに来たのは、“告げる”ためではなく、おそらく“釘を刺す”ためだ。
本当に――この事件を、利用していいのか?
正義と現実。その境界線を、問いかけられている気がした。