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第3話

 長岡総合病院。

 東京駅から新幹線でおよそ一時間半。雪の黒い雲の空を眺めながら、遠山は今、新潟の地を踏んでいた。

 試合まであと六日。各チームとの細かい連携が必要となるが、それに付随して、負傷した選手の見舞いも兼ねた出張である。

 三月。暦の上では春に入ったが、今日も雪。アスファルトの端には、かすかに溶け残った灰色の雪が名残をとどめている。頬をかすめる風にも、都心では感じられない冷たさがある。

 ――長岡。

 歴史好きの遠山にとって、この地には並々ならぬ思いがあった。

 一度目は幕末。

 河井継之助が新政府に抗い、結果、城下は焼かれた。司馬遼太郎の『峠』で有名な話だ。

 二度目は、昭和二十年の空襲。街の大半が焼け落ち、記録と記憶が焦土と化した。

 それでも長岡は、立ち上がった。

 毎年夏に打ち上がる長岡花火は、その不屈の精神を象徴するかのように、夜空を焦がす。

 ——だからこそ、今日、Wリーグの件でこの地を訪れることができたのは、遠山にとって小さな誇りでもあった。彼が目指すのもまた、「一度失われたもの」を再び立て直す仕事だからだ。

 ……だが。

 今日の長岡には、なぜかいつもよりも色彩が欠けて見える。

 どこか街全体が、呼吸を浅くしているような。

 それは、事件のせいか。それとも、自分自身の心の疲労なのか。遠山は確かめる術も持たないまま、病院のエントランスをくぐった。

 エントランスには、制服姿の地元警察官に混じって、見覚えのあるスーツ姿の男が立っていた。

 何度か顔は合わせたことがある。だが、あいさつはおろか、名前すら知らない。警視庁本部から派遣された捜査官だと聞いている。顔を軽く下げると、彼は素っ気なく顎を動かした。

「それで、対策はどうなりましたか?」

 病棟へ向かう途中、彼は不意にそう切り出した。

 まるで雑談のように、だが明らかに何かを試す口調だった。

「それは、うちの広報の佐々木が既に伝えたと思いましたが」

 遠山は警戒を含ませつつ返す。

「……分かってます。ですが、“変更ないか”の確認です」

「その言い方、何か含みがありますね」

「どう取ってもらっても結構。こういう性格なんで」

 皮肉とも本音ともつかぬ返答だった。

 エレベーターがカチリと開き、無言のまま二人は乗り込む。

 閉じる扉の向こうに、一瞬、看護師の視線がよぎった。

 病室のあるフロアに着き、ナースステーションを通り抜けたとき、彼はもう一度口を開く。

「……試合、無観客にしたんですよね?」

「ええ。そちらのアドバイスも踏まえて、ですが。選手の安全を最優先に考えました」

「懸命な判断です。……しかし、よくスポンサーが許しましたね?」

「悩みましたよ、正直」

「ほう、そうですか」

「でも、やはりバスケは選手がいないと成り立ちません。人命優先です。“人の命は地球より重い”らしいので」

 揶揄混じりに言うと、スーツの男は口元をわずかにゆがめた。

「……まあ、そうかもしれませんね」

「ほう」

「何ですか?」

「意外ですね、警察の方がそういう反応をするのは」

「そうですか?」

「警察官になるような方なら、そういう理念には、もっと強い信念があるかと」

「……最初は、ありましたよ」

 廊下の突き当たりが近づく。病室の前で彼はふと立ち止まると、背中越しに呟いた。

「でもね。こういう事件を、何度も、何度も見ていると……いつの間にか、“理念”なんてものが、どこかに置き去りになってる。何が正しくて、何が間違いかなんて、捜査報告書には書かれてないんですよ」

 その声音には、疲労でも厭世でもない、冷めた現実が宿っていた。

 遠山は黙っていた。

 同じように、理想と現実の狭間で揺れている自分自身の姿を、そこに見た気がしたからだった。

 神崎選手の病室には、新潟ライオンズのチームスタッフが二人と、制服の地元警察官が一人、無言で立っていた。

 一応、あのSNSでの脅迫文では、神崎ほのか選手の命が狙われていた。

 だからこそ、これは形式的な処置ではない。

 今も犯行が続いている可能性がある。 それは、誰も否定できない事実だった。

 遠山は病室に入る前に、制服の警察官とチームスタッフに軽く会釈した。

 全員、重たい空気に包まれている。張り詰めた緊張と、言葉にできない苛立ちとが、空間に染み込んでいた。

 ゆっくりとカーテンを開ける。

 病室のベッドの上では、包帯を頭に巻いたショートヘアの女性が、上体を少しだけ起こし、静かに窓の外を見つめていた。

 吹雪。白い粒が、水平に流れるようにガラスにぶつかり、すぐに溶けていく。

 彼女が――神崎ほのか。

 北海道出身。札幌市の、千歳寄りの街の出だと聞いている。

 高校二年時のウインターカップで鮮烈なデビューを果たし、三年時にはインターハイでも名を馳せた。その後、都内の名門校で技術を磨き、山梨キングビートルズへ。そして四年目に今の新潟ライオンズに移籍。プレースタイルはアグレッシブで、観る者に期待感と緊張を同時に抱かせる選手だった。

 リーグスタッフとして、彼女のような“物語を生む選手”の存在は本当に貴重だった。

 が、その一方で、私生活は驚くほど無口で、内気。メディアにも必要以上のことは語らず、SNSの更新頻度も少ない。プレイの強さと、私生活での繊細さ。そのギャップに、初めは違和感を覚えたが、今となっては「それが神崎らしさ」だと思えるようになっていた。

 けれど、今は違う。

 事件の生存者であり、しかも、犯人と直接接触した人物である。

 SNSの特定がなぜか思ったよりも上手く進んでおらず、彼女の言葉、仕草、一つひとつが、今や捜査の重要な材料となっている。

「神崎さん、どうも」

 スーツの男は、不愛想に挨拶をした。

 神崎は、顔を向けない。窓の外、白く煙る景色に視線を留めたまま、まるで別の世界にいるようだった。

 だが、スーツの男は気にした様子もなく、内ポケットから手帳を取り出した。

「まだ声が出せないとのことなので、何かあれば手を挙げてください」

 その言葉に、神崎の瞳がわずかに揺れた。けれど、身体は動かない。

「あなたは、事件の当日。練習終わりに自宅へ戻ったと聞いています。練習が終わったのは、十八時。そして、事件が起きたのは二十二時。……その間、あなたはどこにいましたか?」

 沈黙。

 その空白を埋めるように、病室の後ろからチームスタッフの一人が声を上げた。

「それは前にもお伝えしました。神崎は他の選手と食事に行っていました。もう、こういう“事情聴取まがい”はやめてください。これ以上は……訴えますよ」

 スーツの男は手を軽く上げてみせた。

「いやいや、失敬。ただ、確認なんです。“食事に行っていた”としても……なぜ、あの日だけ普段と違う道を通ったのですか? その道、あなたは普段使わないと聞いています。そして、あなたの家から見ても……遠回りですよね?」

 スタッフが再び口を開こうとするのを、スーツの男は目線だけで制し、低く畳みかけた。

「……神崎選手。もしかして――あなた、“襲われることが分かっていた”んじゃないですか?」

 遠山の鼓膜が、ズキリと痛んだ気がした。

「食事に行くにしても、あなたが自分からチームメイトを誘うことは珍しいと聞いています。なのに、なぜあの日に限って……? あなたの中に、何か“予感”があったのでは?」

 その瞬間だった。

 神崎が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 そして、彼女の目には――大粒の涙が浮かんでいた。

 凍ったように表情のなかった少女の顔に、急激に感情があふれ出す。震える肩。ぎゅっと握られた布団の端。

 遠山の中で、何かが軋むように動いた。

「すみません、それ以上は――」

 声を出したのは、遠山自身だった。

 自分でも驚くほどはっきりと、そして冷静に。

「……これ以上の質問は我々を通していただきます。彼女は、今はまだ“保護されるべき被害者”です。心のケアが先です」

 遠山は半ば強引にスーツの男と神崎選手の間に身体を滑り込ませると、鋭い視線で男を見据えた。男は一歩後ろに引き、「まあまあ」と口元だけで薄く笑った。けれど、その笑みには悪びれた様子は一切なく、むしろ「お前が余計なことを」とでも言いたげだった。

 遠山は肩越しに神崎選手を振り返る。彼女はまた窓の外を見ていた。けれど、頬に細い涙の跡が残っていた。

 遠山は小さく息を吐く。何か、言葉をかけたい。でもそれが何かは、すぐには見つからなかった。

 代わりに新潟ライオンズのチームスタッフに目を向けた。

「何か必要なことがあれば、遠慮なく言ってください。こちらもまたタイミングを見て、うかがいます」

 その言葉にスタッフがうなずいたのを確認してから、遠山はドアノブに手をかける。スーツの男にも軽く、しかし冷たく睨みを送った。

 その時だった。

「……おわ……」

 かすかに、それこそ風のように微かな声が聞こえた。

「……あ、そ……」

 病室にいた全員の動きが止まる。誰もがその声の主に目を向ける。

 神崎ほのか。彼女は依然として窓の外を見ていたが、その唇だけが、かすかに、けれど確かに動いていた。

「今……なんて?」と遠山が小さくつぶやいてベッドに近づこうとした瞬間、スーツの男が割り込んできた。

「な、何だ。何を言おうとしたんだ!」

 そう言って神崎の肩に手をかけた。その手つきは明らかに乱暴だった。

「やめろッ!」と遠山は思わず声を上げ、男の腕を掴んで引き剥がそうとした。「あんた、やりすぎだ!」

「お前こそ……公務執行妨害だぞ!」

 睨み合い、空気が張り詰める。

 しかしまた、彼女の声が空気を切り裂く。

「……あ、そ、こ……」

 その声はひどく掠れていたが、言葉の芯には何か確かなものがあった。

 彼女の目は、まだ吹雪の彼方を見つめていた。

「……あそこで……終わっていれば……よかったのに……」

 病室内の全員がその言葉に凍りつく。

 “あそこ”——事件現場のことか。

 “終わっていれば”——何が? 自分の命か、それとも……あの夜、何か決着すべきものがあったのか。

 誰も言葉を返せなかった。

 その時、遠山の胸ポケットでスマートフォンが震えた。

「失礼」

 反射的に電話に出る。だが病室であることにすぐ気づき、すぐに切ろうとした。画面にはリーグ事務局の番号。

 ほぼ同じタイミングで、スーツの男も電話に出ていた。何かが起きている。それは互いの表情で分かった。

 遠山は本能に負け、スマホを耳に当てる。

「遠山さん……!」切羽詰まった声だった。

「すまん、今病室だ。後でかけ直す」

「ち、違います! 今すぐ聞いてください……チケットが、売られてしまっています!」

「……は?」

 遠山の喉が乾いた。

「昨日の会議で無観客開催が決まったはずだろ」

「ですが……今日の理事会で全てひっくり返されたんです。会場も、収容上限以上の枚数で……」

「バカな……!」

 その言葉と重なるように、スーツの男が電話を切り、とんでもない形相で遠山の肩をつかんだ。

「どういうつもりだ」とでも言いたげに睨んでくるが、もはや遠山の意識は別のところにあった。

 スマホの向こう、震える声でスタッフが続けた。

「それと……さっき、また新しいアカウントが動きました。犯人と思われるものです」

 遠山の喉が鳴った。

「なんて言ってる?」

「『すべての罪を謝罪しろ。今週末の試合——俺が会場で魅せる』……そう、書かれています」

 血の気が引いていくのが分かった。背後で吹雪が病室の窓を叩いている。外は白く、冷たく、容赦がない。

(まるで、何かが崩れていく音が聞こえる……)

 それは自分の中の感覚だったのか、それとも、このリーグそのものの運命なのか——。


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