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第3話

 再び扉が叩かれた。ノックの主は二回戸を叩いた後、外で礼儀正しく返事を待っている様子だ。


「入ってください」

 東條の声と共に扉が開かれ、執事らしき初老の男が姿を現した。丁寧に整えられた灰色の髪に整った顎ひげを蓄え、黒い上着を着ている。


「旦那様、おはようございます」

 男は洗面用具を抱えて室内に入ってきた。腕に下げられた大きな水差しが湯気を立てている。

「おはようございます、久世君」


 久世は壁際の鏡台に洗面器を据え、湯を張った。差し出されたタオルを受け取り、東條は顔を洗う。顔を拭いながらスツールに腰かけた主人の顎に、久世は形だけ剃刀を当てた。東條にほとんど髭らしいものが生えていないのは、先ほどこの目で見たとおりだ。


「今日も寒うございますなァ」

 久世は手際よく東條の顔に化粧水をすり込んでいく。どうやら東條の甘ったれた柔肌は、久世の日々の丹精によるものらしい。

「そうですね、小夜子君の部屋に火を入れさせてください。ここはいいですから」


 主にコールドクリームを選ばせている間に、久世は箪笥から服を取り出す。明るい胡桃色のツイードの上下には柿色の繻子しゅすが裏地に当てられ、ジレは細かな西洋唐草の織り出されたうぐいす色の西陣だ。


 東條が選び出した小瓶を受け取り、久世は手早くクリームを塗っていく。

「こちらで年を越させることになって皆様には申し訳ありませんが、可能な限りのお重は用意しております」

「助かります。先生方にはくれぐれも失礼のないように」


 久世は細々と報告をしながら主人に靴下をあてがい、寝間着を取り除けた。現れた細身の裸体に香水を吹き付け、淡い光沢のある練色のシャツを羽織らせる。周囲にラベンダーの香気が舞う。


「そうだ、あとで珠名君に例の煙草を。前に白金宮様から預かったものがそのままになっていましたから」

「かしこまりました、今お使いのお部屋でございますね」


 東條の袖には白蝶貝のカフリンクスが取り付けられ、シャツの上から乗せられた派手なジレが東條の腹をほっそりと締める。久世が主の首に巻いた臙脂のスカーフの上から大粒のカメオを留めようとしているのを見て、おれはついに呆れてしまった。

 かれは毎日こんなにめかしこんでいるのだろうか、まるで孔雀だ。東條は男にしては随分な洒落もののようだ。もっともあの美しい妻の横に立つには、東條のような美男であってもこれほどの努力が必要なのかもしれないが。


「ところで、黒岩様のことですが……」

 東條の髪に櫛を入れながら、久世が言いづらそうに切り出す。

「どうしても今日、旦那様にお目にかかりたいと」


 東條は露骨に眉根を寄せた。久世は顰められた顔に落ちかかる前髪を掬い、こてを当てる。ゆるくうねった髪が、みるみる内に西洋の肖像画のように優美にまとめられていく。襟足と横顔に垂れ下がる髪の先を、久世は慎重に髪油でひねった。


「困りましたね……あいにく忙しいと言ってください、あの方と話すことは何もない」

 久世はかしこまりましたと返事をしながら、今度は東條の爪を一本一本あらためていった。細やかに爪磨きを当て、わずかな曇りも許さず指先に艶を与えていく。薬指に触れられるとき、東條はほんの少しくすぐったそうに目を細めた。


 やがて久世は満足げによしと呟くと、主人の足元に飴色に磨かれた革靴を差し出した。東條は靴に足を入れて立つと、小さく伸びをする。その背に久世は上着を差しかけた。まったく、ご苦労なことだ。


 久世は洗面道具を片付けている。

「ああそれと旦那様、そろそろ産着のご準備を。前に三越が持ってきた生地ですが、どれにいたしましょうか?」

竜胆りんどうのにしてください、男の子はああでないと」

 久世は破顔した。おおせのままにと答える。

「それでは失礼いたします、朝餉あさげのお支度はできておりますので」

「はい、すぐに下りますね」


 久世は一礼し、退室していった。おれは大きなため息をつく。

「……随分と自信があるのだな、そんなに男児を望んでいるのか?」

「私には分かるんです」

 東條は微笑んだ。サイドテーブルの上の懐中時計を一瞥し、そっと胸に仕舞う。


「たかが着替えに大した念の入れようだな、あの執事も毎朝これでは大変だろう」

「おやおや、これは久世君にすすめられていることなんですよ。家格を保つためには必要だからと」

「家格?」


 おれは部屋をぐるりと見回した。確かに豪奢な部屋ではあるが。

「もしかして君、私のことを何も知らずにここに来たんですか?」

「……名前だけだ」


 東條は軽く目を見開く。

「それは……なんだか口惜しいですね。私のことを何も知らない方に殺されるというのも」


 東條は胸に手を当てた。おれに向かって深々と腰を折る。

「東條家第十二代当主、八咫東京銀行頭取、子爵の東條善麿と申します。以後お見知りおきを」


 おれは一瞬鼻白んだが、素直に聞くことにした。どんななよなよとした優男だろうが、男が死ぬ前に名乗りを上げるのは当然のことだ。己のことを何も知らぬものに殺されるのが悔しい、という感情は、むしろ矜持を感じて好ましい。


「お前、銀行家だったのか。その年で子爵とはな」

「両親が早くに亡くなったもので……幸い家業の方は順調でして、華族にしては成功した方ですよ」


 おれは改めて東條の姿を一瞥した。まだ三十になるやならずの、どうにも気障きざな伊達男だ。しかし所作にはてらいがなく、物腰は板についていて風格がある。己の地位において、それなりに責任を果たしてきているようだ。家格の意味が頷ける。東條の派手な装いも、出資者に対して体裁を保つ役割があるのかもしれない。


 おれはこの男が並み居るお偉方に囲まれ、珍しい南国の鳥でも愛でるように見物されている様子を思い浮かべた。東條は白黒の背広に身を包んだかび臭い老人たちの真ん中で、そこだけ色彩をまとって花のように笑っている。見かけによらず大変な仕事だ。


 おれの空想でも覗き見たのか、東條はふっと笑った。

「さて死神君、下に行きましょう。朝ご飯の時間です」

「……死神は飯を食わん」

「いいじゃないですか、来てください。君だって、ここに一人で残っても退屈でしょう」


 東條はおれに手を伸ばした。その手を無視し、おれは立ち上がってつかつかと扉に向かう。

「おやおや」

 おれはそのまま扉にぶつかり、半身を向こう側に出して見せた。死神は扉や壁といった障壁をすり抜けて移動できる。

「へぇ、すごいんですね君は」

 東條は小走りに俺を追いかけた。なぜか楽しそうだ。依然としてこの男には死神を恐れる気持はないようだ。

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