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第7話

 おれはふらふらと小夜子の部屋を出た。当てもなく階段を下りる。誰かを見たくなく、人のいない部屋を探した。


 そしておれは図書室を探し当てた。三方の壁が背の高い書架で覆われ、古めかしい本がびっしりと並んでいる。本は紳士録や経済書、小説など雑多だ。本棚に手を突っ込むと、本はおれの手を他愛なくすり抜けた。東條はここの蔵書に関心がないようだ。

 室内はしんと静まり返っており、薄い光が天井近くの明り取りから差し込むだけだ。この薄暗さが俺の気持をいくぶん和らげた。


 中央には安楽椅子と小机が置かれ、壁には信濃毎日新聞と刷り出された日めくりが掛かっていた。日めくりはほとんど破られて薄くなっており、大正十一年十二月三十一日との日付が記載されている。久世や東條が言っていた年越しとはこれかとようやく思い至る。


 左手の壁には絵画が飾られていた。中央に大きな洋館の絵があり、『銀烏荘ぎんあそう』と題されている。この館だろうか、おれはその絵に近づいた。


 外壁にタイルの張られた、瀟洒しょうしゃな洋館だ。二階にはフランス窓のあるバルコニーが並んでいる。おそらく、片方が小夜子の部屋だ。その下側の玄関は大きな車寄せがついており、来客の多さを思わせる。

 絵の中の洋館は新緑の季節を描いているようで、洋館は柔らかな緑に覆われている。色彩は明るく、今のような死の影などまるで見られない。ここは長野で、本来は避暑のために建てられた別荘と思われる。こんな雪深い時期に来るようなところではない。


 洋館の絵の脇に肖像画があった。正装の中年紳士で、面立ちがどことなく東條に似ている。早逝したというかれの父親か。おれはその絵に顔を寄せた。


「どなたかな?」

 いきなり声をかけられ、おれは振り向いた。本棚の陰の腰掛けに、ぴったりと銀髪の老人がまっている。かれは長い黒衣に身を包み、首からは十字架を下げていた。脇には黒い杖を携えている。神父だ。

「すまない、誰かいるとは思わなかった」

 おれは弁解しながら一歩下がった。待て、なぜこいつにはおれが分かるのだ?


 神父は小首を傾げた。両眼が閉じている。どうも目明きではないようだ。目の見えない人間が図書室で何をしているのだろうか、次々と疑問が湧く。


「そなた、人間ではないな?」

 おれは再び驚いた。

「分かるのか?」

「分かるとも」

 神父は得意気に笑った。


「……おれは死神だ」

「ほう」

 神父は目を閉じたまま息を漏らす。

「死神に会うのは久しぶりだ。まさか、こんなところで出会うとはな」

「他の死神を見たことがあるのか?」

「それはもう、この仕事をしていれば何度もな」

 おれは神父を見た。確かにかれからは、ある種の神聖な霊力を感じる。こういう特別な人間ならば、おれを知覚できるのかもしれない。


「おれが怖くないのか?」

「そなたは私の死神ではあるまい」それに、と神父は続ける。

「顕現してすぐに命を奪う死神ばかりでもない、結び付いた人間を何年も見守る死神もいる。そもそも、死は万人に平等に訪れるものだ。殊更ことさらにそなたを恐れる理由はない」

 どうやらこの館には、死神を恐れぬ人間が集っているようだ。おれはつい鼻を鳴らす。


「パウロ天堂と申す」

 神父は手を差し出した。握手なのか立ち上がりたいから手を貸せと言いたいのか、判断がつかない。

「……瑞祥だ」

 おれは逡巡の後、握手ととらえて神父の手を軽く握った。神父は片眉を上げて怪訝な顔をしたが、そのまま手を引っ込めた。


「お前はこんなところで何をしている?その目、本が読める訳ではないようだが」

「なに、この館で最も静かな場所にいたくてな。本は読めずとも、本には神や過去の賢人たちの高潔な思想が宿っている。人間たちとの俗な雑談より、霊的対話をしていたいのだ」

 神父は飄々と答えた。どうやら、おれと似た動機のようだ。確かに今、この館に滞在している人間に、静かに読書を楽しむ者はいなさそうだ。


「ここの主人は、どうにも変な奴だな」

「善麿様か?確かに少し変わった方かもしれん」

「別荘に神父まで招くとは、ずいぶんと熱心な耶蘇キリスト教徒のようだ」

「ああ、確かに善麿様も受洗されているが……私が来たのは小夜子夫人のためだ」

 おれは小夜子の首にかかっていた十字架を思い出した。


「子爵の奥方ともなれば、旅行に神父まで連れてくるのか」

 半ば呆れの意味だったが、神父は真顔で頷いた。

「小夜子夫人からは以前より多額のご寄付を頂いておる。大変信仰の厚い立派なご婦人だ。初めてのご懐妊ともなれば心細かろう、主のご加護を求めるのは当然のことだ」

 信仰の厚い立派なご婦人が、夫の子ではない子を孕むだろうか。そういえば、神父は信徒の告解を聞くものだ。小夜子の秘密を知っているかもしれない。


「その奥方だが……どうも腹の子の父親を疑う声があるようだな」

「ほう?」

 神父はぴくりと銀色の眉を動かした。

「綺麗な奥方だ、思いを寄せる男もさぞや多かったと思うが」

「……品のない噂だな」

 神父は不愉快そうに顔を背けた。

「そんなご婦人ではないと?」

 かれは天を仰ぎ、しばらく黙り込む。

「……ひとは誰にでも罪があるものだ、小夜子様がそしりを受ける理由にはならん」


 何が言いたいのだろうか?小夜子を庇っているつもりなのか。尋ねようとしたその時、背後で扉が開いた。

「天堂神父、こちらにお出ででしたか」

 久世だ。こちらまで歩いてくる。

「お昼の準備ができております。またお部屋に運ばせましょうか?」

「ああ、助かります」

 天堂は愛想よく答えると、差し出された久世の手を取った。辞去の挨拶のつもりだろう、おれにだけ分かる程度に小さく会釈する。天堂はそのまま久世に手を引かれ、部屋を出ていった。

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