おれはふらふらと小夜子の部屋を出た。当てもなく階段を下りる。誰かを見たくなく、人のいない部屋を探した。
そしておれは図書室を探し当てた。三方の壁が背の高い書架で覆われ、古めかしい本がびっしりと並んでいる。本は紳士録や経済書、小説など雑多だ。本棚に手を突っ込むと、本はおれの手を他愛なくすり抜けた。東條はここの蔵書に関心がないようだ。
室内はしんと静まり返っており、薄い光が天井近くの明り取りから差し込むだけだ。この薄暗さが俺の気持をいくぶん和らげた。
中央には安楽椅子と小机が置かれ、壁には信濃毎日新聞と刷り出された日めくりが掛かっていた。日めくりはほとんど破られて薄くなっており、大正十一年十二月三十一日との日付が記載されている。久世や東條が言っていた年越しとはこれかとようやく思い至る。
左手の壁には絵画が飾られていた。中央に大きな洋館の絵があり、『
外壁にタイルの張られた、
絵の中の洋館は新緑の季節を描いているようで、洋館は柔らかな緑に覆われている。色彩は明るく、今のような死の影などまるで見られない。ここは長野で、本来は避暑のために建てられた別荘と思われる。こんな雪深い時期に来るようなところではない。
洋館の絵の脇に肖像画があった。正装の中年紳士で、面立ちがどことなく東條に似ている。早逝したというかれの父親か。おれはその絵に顔を寄せた。
「どなたかな?」
いきなり声をかけられ、おれは振り向いた。本棚の陰の腰掛けに、ぴったりと銀髪の老人が
「すまない、誰かいるとは思わなかった」
おれは弁解しながら一歩下がった。待て、なぜこいつにはおれが分かるのだ?
神父は小首を傾げた。両眼が閉じている。どうも目明きではないようだ。目の見えない人間が図書室で何をしているのだろうか、次々と疑問が湧く。
「そなた、人間ではないな?」
おれは再び驚いた。
「分かるのか?」
「分かるとも」
神父は得意気に笑った。
「……おれは死神だ」
「ほう」
神父は目を閉じたまま息を漏らす。
「死神に会うのは久しぶりだ。まさか、こんなところで出会うとはな」
「他の死神を見たことがあるのか?」
「それはもう、この仕事をしていれば何度もな」
おれは神父を見た。確かにかれからは、ある種の神聖な霊力を感じる。こういう特別な人間ならば、おれを知覚できるのかもしれない。
「おれが怖くないのか?」
「そなたは私の死神ではあるまい」それに、と神父は続ける。
「顕現してすぐに命を奪う死神ばかりでもない、結び付いた人間を何年も見守る死神もいる。そもそも、死は万人に平等に訪れるものだ。
どうやらこの館には、死神を恐れぬ人間が集っているようだ。おれはつい鼻を鳴らす。
「パウロ天堂と申す」
神父は手を差し出した。握手なのか立ち上がりたいから手を貸せと言いたいのか、判断がつかない。
「……瑞祥だ」
おれは逡巡の後、握手ととらえて神父の手を軽く握った。神父は片眉を上げて怪訝な顔をしたが、そのまま手を引っ込めた。
「お前はこんなところで何をしている?その目、本が読める訳ではないようだが」
「なに、この館で最も静かな場所にいたくてな。本は読めずとも、本には神や過去の賢人たちの高潔な思想が宿っている。人間たちとの俗な雑談より、霊的対話をしていたいのだ」
神父は飄々と答えた。どうやら、おれと似た動機のようだ。確かに今、この館に滞在している人間に、静かに読書を楽しむ者はいなさそうだ。
「ここの主人は、どうにも変な奴だな」
「善麿様か?確かに少し変わった方かもしれん」
「別荘に神父まで招くとは、ずいぶんと熱心な
「ああ、確かに善麿様も受洗されているが……私が来たのは小夜子夫人のためだ」
おれは小夜子の首にかかっていた十字架を思い出した。
「子爵の奥方ともなれば、旅行に神父まで連れてくるのか」
半ば呆れの意味だったが、神父は真顔で頷いた。
「小夜子夫人からは以前より多額のご寄付を頂いておる。大変信仰の厚い立派なご婦人だ。初めてのご懐妊ともなれば心細かろう、主のご加護を求めるのは当然のことだ」
信仰の厚い立派なご婦人が、夫の子ではない子を孕むだろうか。そういえば、神父は信徒の告解を聞くものだ。小夜子の秘密を知っているかもしれない。
「その奥方だが……どうも腹の子の父親を疑う声があるようだな」
「ほう?」
神父はぴくりと銀色の眉を動かした。
「綺麗な奥方だ、思いを寄せる男もさぞや多かったと思うが」
「……品のない噂だな」
神父は不愉快そうに顔を背けた。
「そんなご婦人ではないと?」
かれは天を仰ぎ、しばらく黙り込む。
「……ひとは誰にでも罪があるものだ、小夜子様が
何が言いたいのだろうか?小夜子を庇っているつもりなのか。尋ねようとしたその時、背後で扉が開いた。
「天堂神父、こちらにお出ででしたか」
久世だ。こちらまで歩いてくる。
「お昼の準備ができております。またお部屋に運ばせましょうか?」
「ああ、助かります」
天堂は愛想よく答えると、差し出された久世の手を取った。辞去の挨拶のつもりだろう、おれにだけ分かる程度に小さく会釈する。天堂はそのまま久世に手を引かれ、部屋を出ていった。