おれが
小夜子の部屋の戸口で、雨宮が早口で珠名に何事かを指示している。珠名は心得ているらしく、すぐに頷いて隣の部屋に駆け込んだ。向こうから三笠と、天堂の手を引いた内藤が小走りで近づいてくる。玄関ホールの柱時計が八時の鐘を打つ音が、二階のロビーまで響いた。
邸内はすっかり大騒ぎだ。しかし夫の姿が見えない。奴は一体何をしているのだろうか?なんとなく嫌な予感がして東條の部屋に急ぐ。
おれが東條の部屋に戻った時、かれは廊下の喧騒をよそに窓からぼんやりと外を眺め、煙草を吸っていた。眺める、といっても日は既に落ちている。空は厚い雪雲に覆われて星もなく、夜の闇は既に深い。何かが見えるはずもない。
「おや瑞祥君、お帰りなさい」
「……何を見ている」
「君が帰ってくるかなぁ、と思いまして」
銀烏荘の全貌から察するに、この部屋は館の裏側に当たる。ささやかな裏庭のすぐ向こうでは陰気な木々が視界を遮り、散歩をして面白い場所ではない。そんなところをおれがうろついていると本気で思ったのだろうか。そもそも、おれの動向など気にしている場合だろうか。
おれが黙っていると、東條はにこにこしながら歩み寄ってきた。見るとテーブルの上には灰皿に加えてウイスキーの瓶と、皿に乗った数個の茶色い欠片がある。おそらく、チョコレートだ。東條は灰皿に煙草を置くと、おれに座るよう勧めた。おれは立ったまま腕を組み、東條を睨む。
「お前はこんなところで何をしている?お前の妻が産気づいたようだぞ」
「ですねぇ」
男親が何かできる訳ではないでしょう、いるだけ迷惑というものです。おれの咎める眼差しに気づいたのか、東條は弁解がましく苦笑する。
東條は傍らのワゴンから小さな切子の杯を二つ取り出した。とくとくとウイスキーを注ぎ、片方をおれに差し出す。
「座ってくださいよ、一杯やりましょう」
「死神は飯を食わんと言っただろう、酒も飲まない」
「でも、”私のもの”なら触れるんですよね?」
東條は肘掛椅子に深々と腰を下ろし、酒を唇に当てている。何か言っても無駄なようだ、おれは勧められるままに腰を下ろすと杯に手を伸ばした。
「……確かにな」
杯は難なく俺の手の中に収まった。試しにそっと舌で触れてみると、
「いけるようですね、よろしければこれも」
東條はチョコレートの入った小皿を押しやる。おれは試しに一粒を摘み上げて口に入れた。確かに滑らかな甘味を味わったと思ったが、改めて確認すれば皿の中のチョコレートの数はそのままだった。おれには飲食物の風味を感じ取るのが精々らしい。
東條はおれが飲み食いするのを飽きずに眺めている。
「何が面白い?」
「え? 楽しいですよ、君と飲めて」
死神と酒を酌み交わすなどいかれている、と思ったが、おれはこの館の人間たちと無関係な立場だ。かならずしも東條に誠実な人間たちばかりではない中で、おれはある意味、唯一気を許せる存在なのだろう。
考えてみれば憐れな男だ。かれは自分の愛する妻が不義の子を産もうとしているのを、一体どんな気持で待っているのだろうか。おいそれと誰かに打ち明けられる話ではない。東條がどれほど巨額の資産に恵まれていようが、それはかれの心を癒すまい。
「瑞祥君、もう少し君のことを教えてくださいよ。好物とかないんですか?」
東條はごく軽い調子でチョコレートをつまんだ。少し雑談に付き合ってやるくらいいいだろう、おれは記憶がないなりに頭を巡らせる。
「そうだな……甘いものは嫌いではない」
チョコレートは素直に美味いと感じる。生前のおれも好きだったはずだ。
「なるほどなるほど。お酒はどうです?」
「酒も嫌いではないが、菓子に合わせるなら紅茶の方が良いな」
勝手に口から出た言葉を反芻する。そうだ、おれは紅茶の味を知っている。生前のおれの記憶なのだろうか、それとも死神として与えられた知識の一部に過ぎないのか、ちっとも思い出せない。
「やっぱり! そうだと思っていました」
東條は我が意を得たりと言わんばかりの、会心の笑みを浮かべた。
「君、和菓子も好きなはずです。知っていますか?あんみつにアイスクリームを合わせると美味しいのですよ」
満面の笑顔で子どものようなことを言う。おれはつい笑ってしまった。
「そうなのか、確かに悪くはなさそうだ」
「でしょう? 好物なんです。私が死んだら墓前に供えてもらいたいくらいですよ」
東條は事も無げに言ってのける。そうだ、おれはこいつを死なせに来たのだった。
「……アイスクリームは溶けるんじゃないのか」
「いいでしょう、少しくらい」
東條は立ち上がった。
「紅茶を持ってきます。ぜひ飲んでください」
「おい、そんなことをやらせている場合か」
「大丈夫です、お茶くらい自分で淹れられますよ。皆さんの邪魔にならないようにしますから」
東條は片手を振りながら数歩歩き、そして――唐突にその場に倒れた。
「東條?!」
おれは東條に駆け寄った。東條は喉を押さえ、びくびくと身体を痙攣させている。顔色がひどく悪い。喉をつかむ手が固く、爪が喉に食い込んでいる。
医者を、医者を呼ばなければ。今は小夜子の部屋にいるはずだ。しかし、おれがどうやって医者を呼ぶ?おれの姿は誰にも見えないのに。あの天堂という神父はいるだろうか、なんとかして彼に伝えれば。
「ぐ……」
「しっかりしろ東條、医者を呼んでくる」
立ち上がる俺の腕を東條は掴んだ。なにか言いたそうにしている。
「待て、すぐに戻るから」
おれは東條に言い聞かせようとした。東條は少し笑ったような気がした。
おれをつかんでいた東條の手から、不意にだらりと力が抜けた。東條の腕はぼたりと床に落ち、震えていた身体が止まる。
「東條――」
おれは東條を抱き上げた。閉じられた瞼は動かず、息をしていない。東條の命が立った今消えたことは明らかだった。
ふざけるなよ、おれは激しい怒りにかられた。
明日だ。
おれの腹に強い衝動と確信が湧く。東條、お前が死ぬのは明日なのだ。断じて今日ではない。こんな死は認めない。
おれは自らの怒りに集中した。全霊でこの状況を否定する。おれは死神、この世の因果を御する者。
ぐにゃりと視界が歪んだ。世界が渦を巻いて奈落に落ち込んでいく。おれの意識もその渦に飲まれてゆくが、これでいい。おれは目を閉じ、溶けゆく世界に身をゆだねた。