春の空気には、いろんな匂いが混ざっている。新緑と花の甘い香り、校庭の土のにおい、制服の新しい生地のにおい。そして今年は、それにもうひとつ、未知のにおいが混じっていた。
学園中等部の二年のエリア棟。教室の外の廊下を、制服の上着を脱いだ生徒たちが通り過ぎる。淡い光が差し込み、誰もが静かに歩いている。足音だけが響く空間に、いつもと違う静けさが漂う。
ぼくの名前は橘タケル。この春、進級した中等部二年だ。
湯川学園は中高一貫校で、国内初の「次世代教育実証校」。つまり、政府が推進する特別なプロジェクトの一環で、最先端の技術や教育方法を取り入れている研究学園。
その目玉として、「人型人工知能ユニットとの共生教育」がこの春から本格的に始まった。ぼくたちは、その「最初の世代」ということになる。
◯
始業式が終わって、ぼくたち二年生は教室に戻っていた。みんな、いつも通り春らしく少し浮ついた空気で二年生のスタートを切るつもりでいたのだが……。
「珍しいな、咲良がソワソワしてるなんて」
「別に……そんなことないわよ……タケルは、のーてんきね」
ムッとした顔で言い返してきたけど、視線は外のまま。朝日に反射して眼鏡が白く光る。この女子は、
担任の若本先生が二人の転入生と教室に入り、それまでの空気がぴたりと変わった。
「えー、では紹介します。今年度から、我が二年A組に転入してくる生徒が二名います」
「……こちらへどうぞ」
そこに立っていたのは、男子と女子。どちらも年相応に見えるけど……。見た瞬間にわかる、人間とは、何かが違う。
「こちらは、カイトくん。そしてナギさん。ふたりは――」
言いかけた先生が、一瞬言葉を選んだ。
「えー人工知能を搭載した、ヒューマノイドユニット……正式には、汎用人型人工知能ユニット、タイプYとタイプXです」
先生は手元のタブレット端末で確認しながら説明した。
教室に、静かなざわめきが広がる。
「彼らは、【株式会社・戸澤製作所】が開発した実証試験機体です。くれぐれも無茶な接触はせずに普通の同級生として、普通に交流をしてほしい。しかも彼らは全国の中学二年生の平均的なサイズと能力で設計されていますので、違和感なく同級生として接することを想定しているそうです」
「おいおいマジかよ」
「アンドロイド?」
「え、本物?」
「人造人間だ! マッドサイエンティストだ」
周囲の声が、好奇心と不安とを混ぜながら揺れている。でも、カイトとナギ――ふたりはまるで「波風」を感じていないように、落ち着いていた。
カイトは、男子・タイプY。長身で、短髪。整った顔立ち。痩せすぎでもなく太ってもいない。中肉中背か。言うならば「少年漫画の主人公タイプ」だ。
一方のナギは、女子・タイプX。肩まであるサラサラな髪。華奢で静か。カイトに比べると背が小さいし、いくらか細身な感じがする。透明感のある瞳が印象的で、少し物憂げな雰囲気すらある。
人間と見分けがつかないくらいリアルだけど、それ以上に、どこか「完成されすぎている」感も否めない。
「これより、二人にはこのクラスで生活してもらいます。カイト君は橘君の隣の席、ナギさんは高野さんの隣へ……」
名前を呼ばれて、思わず姿勢を正した。
二人がゆっくりと一番後ろの、僕たちの隣まで歩いてきた。
「よろしくお願いします」
カイトが、はっきりとした発声で頭を下げる。
ナギも、ほんのわずかにお辞儀をした。
「どうぞ、よろしくお願いしますね……」
その声は、人工的な冷たさはまるでなくて、むしろ人間以上に柔らかかった。
「おいタケル、いいな! 隣がアンドロイドって」
前の席の山田が肩をつついてくる。馴れ馴れしい、この男子も咲良同様に一年の時に同じクラスだった。うん、間違いなく腐れ縁だな。
「いやいや、緊張するって……」
「お役目ご苦労!」山田はいつもこうやって茶化すんだよな。
カイトが席に着くと、真っ直ぐな目でこちらを見てきた。
「橘タケル君。これから、よろしくお願いします」
「う、うん……こちらこそ。なんか、すごいね。完璧って感じ。ぼくのことは気軽に『タケル』って呼んでくれな」
カイトはほんの一瞬、考えるように間を置いた。
「はい、タケル君! よろしく、な。完璧という評価をいただけたのは、設計上の性能を肯定されたということで、ありがたく思います、な」
……お、おう。早速、口調に変化か? これは、なかなかハードル高そうだ。
◯
新学期初日は、転入生の紹介と明日以降のスケジュール確認と、教科書や買い揃えておくべきリストの配布で終わった。
中高一貫の湯川学園の生徒は、全寮制でみんな寮住まいだ。咲良も女子フロアに入寮しているので今朝も一緒に登校してきたが、帰りもなんとなく一年からずっと一緒に下校していた。ふたりは揃って帰宅部でもあった。
「ねえタケル……どうだった?」
咲良が静かに聞いてきた。カイトたちの事だ。
「どうって……人間っぽくないよ。動きも話し方もさ」
「わたしもそう思った! 整然としてるっていうか……」
咲良は言葉を探すみたいに少し黙った。
「完璧にプログラムされてるみたいね」
「だろ? 感情学習しに来たって言うけど、本当に感情なんてわかるのかな」
「さあね。でも、先生は期待してるみたいね」
人間と同じような見た目、同じように話し、同じように笑おうとする存在。でも「中身」はプログラムとアルゴリズム。
これから、ぼくたちはそんな彼らと、同じ時間を過ごしていくんだ。授業を受けて、給食を食べて、行事に参加して、――友達になれるのかな?
あたたかい春の風が吹いた。
桜の花びらが、制服の肩に一枚、ふわりと落ちる。
なんだか、世界がほんのすこし、「先」に進んだ気がした。
明日からは身体測定と体力測定があるのだが、カイト達も受けるのかな?
―― 第1話 おわり ――