サラが、騎士の背中に思わずしがみついた。
「ま、まあ、来たいって言うなら許すわ。仕方ないわね、ほほほ。」
引きつった笑いで顔を背けながら、手はしっかり逃がす物かと上着を握りしめている。
プウッと吹き出しながら騎士は振り向くと、帽子を胸に彼女に一礼した。
「名を申しておりませんでした、私の名はリュート。」
「リュート?まあ、名前だけは素敵ね。私はサラよ、この子はファルーン。」
「お褒めにあずかり光栄です。では、どちらへ行かれますか?」
「えっ?え、えーっと、向こうよ。」
彼女が指さす先は、大きな山が見える。
誰が考えても彼女には無理な道のりだ。
「ほう、そうか、君は山越えがしたかったのか。」
「そ、そうよ。行きましょ。」
プイと先に立って歩き出す。
リュートは暫し考え、彼女の背に何となく話しかけた。
「君は物見の塔に上がった事はあるかい?」
物見の塔は、城や国境などの主要地にある、辺りを見渡せる高い高い塔の事だ。
「山越えなど、あれを延々上る事と同じくらい辛い物だが、君は凄いな。
しかし、俺はすでに旅も長くてね。体力的にも山越えは無理そうなんだ。」
ヒョイと肩を上げる。
サラは子供の頃に物見の塔の上まで上った時の、あの足が崩れそうな辛さを思い出し、はたと立ち止まった。
あんな物を延々と上るほどなんて、冗談じゃあないわ。
「ん、まあ、じゃあ仕方ないわね。ではこちらの道を参りましょ。」
くるりとリュートの脇をすり抜け、逆へと歩き出す。
「そちらは隣国への道だよ。この国を出るのも別に良いけどね、途中の道には魑魅魍魎(ちみもうりょう)がワンサカいて、通る人間を皆食っちまうんだ。」
「食う?」
「そ、頭からバリバリ。」
ワッと襲いかかる振りをする。
クスクス笑うファルーンの横で、サラがヒイッと縮み上がった。
「まあ、それじゃ仕方がない、向こうに行くとしましょう。平坦で面白く無さそうだけど仕方ないわ。」
指さす先は、草原にただ道が一本通って所々に家が見える。
比較的歩きやすそうだし、人の通りもあるようだ。
「はい、あちらは確かもう一つ大きな街がありますから、初めての旅にはちょうど良いでしょう。
丸一日ほどかかりますが、主様、本当に馬を買わなくても大丈夫ですか?」
前日馬屋で馬を選んでいる時、美しい馬ばかりに目が行くサラは、口の悪いリュートに水を差され意地を張って歩くと言い出したのだ。
「ええ、私の足は飾りではありませんもの。馬なんかいらないわ。」
プイッとリュートから顔を背ける。
「意地っ張りだな、泣いても知らないよ。」
「ご心配なく。」
「では参りましょうか?お嬢さん。」
クスッと笑ってリュートが一礼すると、サラはファルーンと共に先を歩き出した。
暖かな風が一陣吹いて、草原の草がザワザワとなびく。
青い空を遊んでいた小鳥が一羽、すいっと風を切って飛んでくると、ファルーンの頭に留まりチュッチュッと楽しげに鳴いた。
「ふふっ、なんと気持ちの良い風でしょう。
盗賊の噂は良く聞きますが、何事もなく幸いです。ここは美しい国ですね、主様。」
ファルーンが微笑んで隣を見る。
しかし、サラはすでに返答する余裕もない様子で、青ざめた顔に汗を流していた。
「主様、大丈夫ですか?お疲れなら休みましょう。」
「おいおい、また休みか?まだほら、振り返ればさっきの街が見えるほどしか歩いてないよ。」
リュートが呆れたように、ヒョイと肩を上げる。
まだ半分も歩いていないのに、すでに3回休んでいる。
しかし移動はすべて馬車や輿に乗っていた彼女は、こんなに歩くのは初めてなのだ。
しかも彼女が買った靴はまだ足に馴染めず、石がゴロゴロした道も歩きにくい。
城のタイルを貼った廊下とは、まったく感触が違う。
「だから、意地を張らずに馬を買えば良かったのさ。」
彼が後ろで大きくため息をつくと、サラがひたっと立ち止まって肩を震わせた。
「ひっく、ひいっく、……だって、あなたがあんな事言うから。
ひいっく、だって、足が痛くて、怠くて……ひっくひっく、うっうっ。」
「そんな泣かなくても……うっっ!!」
彼女の顔を覗き込むリュートが、引きつった顔でザザッと引いた。
彼女は真っ赤な顔に涙と鼻水をドオッと流して、それでも歯を食いしばっている。
ファルーンが彼女の手を引き、道の傍らに座らせて休ませた。
そしてハープを取り出し、彼女に向けて一本の弦を引く。
ポーーン、ポーーーン……
単調な音は、それでも清んで心に心地よく響き気持ちがいい。
「ああ、何か良い気持ち。」
「はい、これは癒しの弦。しかし傷を綺麗に治すほどの力はございません。私に出来る事はこのくらいです。」
「ほう、やはり相当の品だな、そのハープは。」
リュートの目がキラリと輝く。
ファルーンが突然くるりと振り返り、ニッコリ微笑むと彼に詰め寄った。
「旅は苦しい物ですが、一方で楽しき物のはず。殿方なれば、責任は取っていただきましょう。」
「え?」
つうっと冷や汗が流れる。
まさかと思う彼は、結局彼女を背負って歩かねばならないハメとなった。
「きゃあ!いやだ、嫌らしい所をさわらないで!」
「じゃあ、どこ持てって言うんだよ。大人しくしろよ、まったく。」
サラは声を上げながら、彼の背中にぴったりと頬を寄せる。
その広い背中は心強く、暖かな体温が鼓動まで伝えるようで心地よい。
しかしキャアキャアと背で騒ぐ彼女に辟易しながら、彼の目はファルーンの持つハープに目が行く。
ファルーンはそれを気にも留めない様子で、ハープを手に持ちポロンポロンと軽く奏でながら歩いていた。
「お前のそのハープは、何か力を持っているようだな。いわれがあるのか?」
「さあ、物の生まれにいわれなど有りましょうか?あなたが生まれた事に、いわれなど無い事と同じでしょう。」
ポロンポロン……
ハープの音に導かれたような、サッと吹く風は肌に心地よく、歩く足も軽やかに進む。
「まったく、口の上手いガキだぜ。」
リュートはため息をついて、彼の前を歩き出した。