灰の町〈ゼオリス〉。
かつては“聖都”と呼ばれ、神の奇跡を讃える巡礼者たちで溢れていたという。
今はただ、灰と埃と亡者の匂いが漂うだけの廃墟。
それでも――人は、生きていた。
崩れた聖堂の屋根には雨避けの鉄板が継ぎ接ぎに貼られ、周囲には壊れた家屋を積み重ねたバリケードが築かれていた。
町の中央には、教会だった建物が今も「信仰」の名残としてそびえている。
だがその信仰は、神に捧げられるものではない。
“祈らないこと”を徹底するための信仰だ。
イグノが足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
視線。拒絶。恐怖。そして――憎悪。
彼の着ている祈祷師の外套は、否応なく人々の記憶を呼び起こす。
「……“祈る者”が来たぞ」
囁きが広がる。すぐに周囲の視線が一点に集まり、母親が子を抱き寄せ、男たちが武器を手にし始める。
敵意は言葉よりも早い。
「この町に、祈祷師の居場所はねぇぞ」
「お前みたいなのが、また贖罪獣を呼びやがる……!」
イグノは反論しなかった。
すべて事実だ。彼の存在そのものが、恐怖を呼ぶ“可能性”そのものなのだ。
群衆の中から石が投げられた。
顔を狙ったものではない。警告だった。
続いて二発目。三発目。今度は怒りが混じる。
イグノはただ立ち尽くす。
そのとき、鋭い声が割って入った。
「もうやめて。彼は、まだ何もしていないわ」
町の奥から、一人の少女が現れた。
彼女の目は閉じられていた――否、包帯で覆われている。
白い布の中から流れる銀色の髪、手に杖を持ち、衣は灰のような白。
「ミリカ様……!」
民衆の空気が一変する。畏敬、信頼、依存。
彼女の言葉ひとつで、人々の怒りが一瞬で凍る。
盲目の少女、ミリカ・ノワール。
この町で唯一“祈りを拒絶せず、なお人々に愛される存在”。
なぜなら、彼女はかつて神の声を聞いた“最後の御使い(アエリア)”だったからだ。
「あなたが……イグノですね」
彼女の声は、確信に満ちていた。
目は見えずとも、彼女は“祈る者”の気配を感じ取る。
「ここに来ると、ずっと前から分かっていました。あなたは、“終わりの祈祷師”だから」
イグノは、思わず息を呑んだ。
――この女は、ただの狂信者ではない。
何かを知っている。
何か、“俺自身すら知らない何か”を。
ミリカの住居は、旧聖堂の地下にあった。
かつて神の声を受け取るための〈聖語の間〉。今では瓦礫と黴に包まれ、神の面影など微塵も残っていない。
だが、彼女はそこを選んで住んでいた。祈祷師でもなく、信徒でもない人々が恐れて近づかぬ場所を。
イグノは通された地下室の空気に、既視感のようなものを覚えた。
乾いているのに、どこか生臭い。人の“言葉”が染みついている感覚。
ここには確かに、かつて“祈り”があった。
「この場所……今でも、残ってるな。祈祷の痕が」
「ええ。私は、消さなかったの」
ミリカは静かに頷いた。
彼女の顔を覆う包帯は、ただの視覚障害を隠すものではない。
そこに封じられているのは、かつて神の“残滓”を直に見た者が背負う、視界の“代償”。
見るだけで発狂するその光景を、彼女はかつて“視た”。
「私の目は、もう光を視ることはできない。でも――世界の“声”は、まだ聞こえるの」
イグノは眉を寄せた。
“声”――それは彼もまた、かつて聞いたことがあった。
神の名を語る何か。存在を名乗らず、ただ祈りを受け取り、代償を求める“空白の存在”。
「……お前も、あれを聞いたのか」
「ええ。ずっと、ね」
ミリカは少女のような外見とは裏腹に、どこか年齢を超越した声でそう言った。
その声音には、優しさよりも諦念が混じっている。
「この町の人たちは、私を“最後の御使い”だと信じている。でも実際は、ただの器。神の代わりに“声”を聞き取るための壊れかけの受信機よ」
「なぜ、それを否定しない」
「希望が必要だから。私が“奇跡の証人”であり続けることが、この町を保たせる唯一の接着剤なの。誰も神など信じていない。でも、“神を信じている誰か”を信じることは、まだできるから」
イグノは押し黙った。
ミリカという少女は、この町にとって“信仰の代替物”であり、神の亡霊そのものだ。
祈りが禁忌とされた世界において、彼女はそれでもなお“祈られる存在”である。
――異端。それが、彼女の正体だった。
「それで……あなたは、何をしに来たの? この町に、私のもとに」
イグノはしばらく黙ったまま、床の印章を見つめていた。
やがて、口を開いた。
「この世界に、まだ“神”が残っているのか知りたい。そして、もし残っているなら――そいつを、殺す方法を探している」
ミリカの口元が、ほんの一瞬だけ、笑みに似た形に歪んだ。
それは哀れみか、それとも共感か。判別はつかない。
「なら、私を殺すところから始めるといいわ。私の中には、まだ“あの声”が残っているから」
ミリカは、語り始めた。
まるでそれが、すでに何度も繰り返されてきた“儀式”であるかのように。
「――私が神を視たのは、七歳のときだったわ。神殿の奥、誰も近づいてはならない“封印域”の中。当時の教皇が“神託の受容実験”と呼んで、私を連れていったの」
イグノは無言で聞いていた。
“神託の受容”――それは、祈りの先にある答えを直接視るという、最も禁じられた儀式だった。
人間が神の意志に触れることは許されない。なぜなら、神の意志は“理”ではなく“構造”だからだ。
「目を開けた瞬間、世界が崩れた。空も、大地も、言葉も、自分の身体さえも、全部“わたしではない何か”に変わっていくのがわかった。それでも見えたのは――ただ、一つの“穴”だった」
ミリカは淡々と語る。まるで誰か別人の記憶をなぞるように。
「黒い穴。終わりのない、重力のようなもの。すべての存在が引き寄せられ、概念も、愛も、善悪も――祈りさえも呑み込んでいく。そこには“神”なんていなかった。ただ、祈りの“帰結”だけがあったの」
「……それが、神の正体か」
「たぶん、違うわ」
ミリカはかすかに首を横に振った。
「それは“神の骸”か、“神が喰らった世界の残滓”かもしれない。でも確かなのは、あの時わたしは“神の目線”をほんの一瞬だけ借りた。そのせいで、私の目は世界を見られなくなったの。“正常な構造”として、現実を視ることができなくなったのよ」
イグノはそれを“狂気”と断じなかった。
彼にも、理解できないことがあった。神に触れ、何かを受け取った者だけが知る深層の“知”――それは時に、理性を喰らう。
「私は、神の存在を肯定も否定もしない。ただ、神というものは、“人間が到達してはならない視点”を持つ存在なのよ。だから、祈ることは常に――世界にとって危険なの」
ミリカは包帯の奥の目を、イグノに向けるように、ゆっくりと顔を上げた。
「……でもあなたは、まだ祈る。なぜ?」
その問いに、イグノは静かに答えた。
「祈らなければ、“世界を壊した責任”すら感じられないからだ」
ミリカの唇が、かすかに震えた。
その瞬間だけ、彼女の内側にある“救いを望む何か”が顔を覗かせたように見えた。
ミリカは、神の声を聞く“器”。
イグノは、神に祈る“鍵”。
2人が手を結ぶことは、世界に対する最大の“挑発”に等しい。
聖堂の地下、封じられた神託室にて、イグノはミリカと向かい合っていた。
かつて神の声が記録されていた《共鳴石板》はひび割れ、光すら通さない。
だが、それでもこの部屋は――“何か”を通してしまう構造を維持していた。
「ここから……声が聞こえる」
ミリカが壁の一角を指さす。
「そこはかつて、神の受答を記録した“聖応区画”だ。今は、呪文の痕跡すら消えたがな」
イグノは懐から古びた銅製の“祈祷器”を取り出した。
歪な十字を模した形状。血と灰で汚れ、魔力の共鳴すら起こさない壊れた道具。
だが、それを使うことに意味がある。“祈り”は行為であり、形式ではない。
「お前が“声”を聞く。俺が“問い”を投げる。それで……残っている神の座標が分かれば、俺はそこに向かう」
ミリカは頷きかけ、しかし口を噤んだ。
「その先にあるのは、“殺す”という行為なの?」
「神が生きている限り、世界は解放されない」
短く、断定のような口調。だが、その声の奥には、迷いがある。
ミリカはその揺らぎを感じ取っていた。
「もし私が、神と繋がっている存在なら? 私を殺すことでしか、神を殺せないとしたら?」
沈黙。
長い、深く突き刺さるような静寂が訪れた。
イグノは答えなかった。否――答えを、まだ選べなかった。
彼にとって神を殺すことは、世界を救うことではなく、自分が壊した世界に対する責任の実行でしかない。
ミリカが歩み寄り、イグノの手を握る。
彼女の手は細く、冷たい。けれど、それは確かな“存在”だった。
「なら、共に行きましょう。私は、あなたの祈りの“意味”が見てみたい。……どれだけ破滅を連れてくるのかも、含めて」
イグノはわずかに口角を歪める。それは笑いではなかった。
「お前、死にたいのか?」
「世界に祈るということは、もう“死に方を選ぶ”ってことなのよ」
重く、鋭く、言葉が落ちる。
祈る者と、祈られる者。
神を視た者と、神を殺したい者。
一時的な共闘に過ぎないかもしれない。
それでも、今、道は重なった。
その刹那――
聖堂の天井が、震えた。
微細な振動。何かが“呼応”している。
イグノが祈祷器を手に取る。ミリカが目を閉じ、壁に手を触れる。
「……神が、“こちらを視た”わ」
「始まったな」