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第2話 灰の町と盲目の女

 灰の町〈ゼオリス〉。

 かつては“聖都”と呼ばれ、神の奇跡を讃える巡礼者たちで溢れていたという。

 今はただ、灰と埃と亡者の匂いが漂うだけの廃墟。

 それでも――人は、生きていた。


 崩れた聖堂の屋根には雨避けの鉄板が継ぎ接ぎに貼られ、周囲には壊れた家屋を積み重ねたバリケードが築かれていた。

 町の中央には、教会だった建物が今も「信仰」の名残としてそびえている。

 だがその信仰は、神に捧げられるものではない。

 “祈らないこと”を徹底するための信仰だ。


 イグノが足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 視線。拒絶。恐怖。そして――憎悪。

 彼の着ている祈祷師の外套は、否応なく人々の記憶を呼び起こす。


 「……“祈る者”が来たぞ」


 囁きが広がる。すぐに周囲の視線が一点に集まり、母親が子を抱き寄せ、男たちが武器を手にし始める。

 敵意は言葉よりも早い。


 「この町に、祈祷師の居場所はねぇぞ」


 「お前みたいなのが、また贖罪獣を呼びやがる……!」


 イグノは反論しなかった。

 すべて事実だ。彼の存在そのものが、恐怖を呼ぶ“可能性”そのものなのだ。


 群衆の中から石が投げられた。

 顔を狙ったものではない。警告だった。

 続いて二発目。三発目。今度は怒りが混じる。


 イグノはただ立ち尽くす。

 そのとき、鋭い声が割って入った。


 「もうやめて。彼は、まだ何もしていないわ」


 町の奥から、一人の少女が現れた。

 彼女の目は閉じられていた――否、包帯で覆われている。

 白い布の中から流れる銀色の髪、手に杖を持ち、衣は灰のような白。


 「ミリカ様……!」


 民衆の空気が一変する。畏敬、信頼、依存。

 彼女の言葉ひとつで、人々の怒りが一瞬で凍る。


 盲目の少女、ミリカ・ノワール。

 この町で唯一“祈りを拒絶せず、なお人々に愛される存在”。

 なぜなら、彼女はかつて神の声を聞いた“最後の御使い(アエリア)”だったからだ。


 「あなたが……イグノですね」


 彼女の声は、確信に満ちていた。

 目は見えずとも、彼女は“祈る者”の気配を感じ取る。


 「ここに来ると、ずっと前から分かっていました。あなたは、“終わりの祈祷師”だから」


 イグノは、思わず息を呑んだ。


 ――この女は、ただの狂信者ではない。

 何かを知っている。

 何か、“俺自身すら知らない何か”を。




 ミリカの住居は、旧聖堂の地下にあった。

 かつて神の声を受け取るための〈聖語の間〉。今では瓦礫と黴に包まれ、神の面影など微塵も残っていない。

 だが、彼女はそこを選んで住んでいた。祈祷師でもなく、信徒でもない人々が恐れて近づかぬ場所を。


 イグノは通された地下室の空気に、既視感のようなものを覚えた。

 乾いているのに、どこか生臭い。人の“言葉”が染みついている感覚。

 ここには確かに、かつて“祈り”があった。


 「この場所……今でも、残ってるな。祈祷の痕が」


 「ええ。私は、消さなかったの」


 ミリカは静かに頷いた。


 彼女の顔を覆う包帯は、ただの視覚障害を隠すものではない。

 そこに封じられているのは、かつて神の“残滓”を直に見た者が背負う、視界の“代償”。

 見るだけで発狂するその光景を、彼女はかつて“視た”。


 「私の目は、もう光を視ることはできない。でも――世界の“声”は、まだ聞こえるの」


 イグノは眉を寄せた。

 “声”――それは彼もまた、かつて聞いたことがあった。

 神の名を語る何か。存在を名乗らず、ただ祈りを受け取り、代償を求める“空白の存在”。


 「……お前も、あれを聞いたのか」


 「ええ。ずっと、ね」


 ミリカは少女のような外見とは裏腹に、どこか年齢を超越した声でそう言った。

 その声音には、優しさよりも諦念が混じっている。


 「この町の人たちは、私を“最後の御使い”だと信じている。でも実際は、ただの器。神の代わりに“声”を聞き取るための壊れかけの受信機よ」


 「なぜ、それを否定しない」


 「希望が必要だから。私が“奇跡の証人”であり続けることが、この町を保たせる唯一の接着剤なの。誰も神など信じていない。でも、“神を信じている誰か”を信じることは、まだできるから」


 イグノは押し黙った。


 ミリカという少女は、この町にとって“信仰の代替物”であり、神の亡霊そのものだ。

 祈りが禁忌とされた世界において、彼女はそれでもなお“祈られる存在”である。


 ――異端。それが、彼女の正体だった。


 「それで……あなたは、何をしに来たの? この町に、私のもとに」


 イグノはしばらく黙ったまま、床の印章を見つめていた。

 やがて、口を開いた。


 「この世界に、まだ“神”が残っているのか知りたい。そして、もし残っているなら――そいつを、殺す方法を探している」


 ミリカの口元が、ほんの一瞬だけ、笑みに似た形に歪んだ。

 それは哀れみか、それとも共感か。判別はつかない。


 「なら、私を殺すところから始めるといいわ。私の中には、まだ“あの声”が残っているから」




 ミリカは、語り始めた。

 まるでそれが、すでに何度も繰り返されてきた“儀式”であるかのように。


 「――私が神を視たのは、七歳のときだったわ。神殿の奥、誰も近づいてはならない“封印域”の中。当時の教皇が“神託の受容実験”と呼んで、私を連れていったの」


 イグノは無言で聞いていた。

 “神託の受容”――それは、祈りの先にある答えを直接視るという、最も禁じられた儀式だった。

 人間が神の意志に触れることは許されない。なぜなら、神の意志は“理”ではなく“構造”だからだ。


 「目を開けた瞬間、世界が崩れた。空も、大地も、言葉も、自分の身体さえも、全部“わたしではない何か”に変わっていくのがわかった。それでも見えたのは――ただ、一つの“穴”だった」


 ミリカは淡々と語る。まるで誰か別人の記憶をなぞるように。


 「黒い穴。終わりのない、重力のようなもの。すべての存在が引き寄せられ、概念も、愛も、善悪も――祈りさえも呑み込んでいく。そこには“神”なんていなかった。ただ、祈りの“帰結”だけがあったの」


 「……それが、神の正体か」


 「たぶん、違うわ」


 ミリカはかすかに首を横に振った。


 「それは“神の骸”か、“神が喰らった世界の残滓”かもしれない。でも確かなのは、あの時わたしは“神の目線”をほんの一瞬だけ借りた。そのせいで、私の目は世界を見られなくなったの。“正常な構造”として、現実を視ることができなくなったのよ」


 イグノはそれを“狂気”と断じなかった。

 彼にも、理解できないことがあった。神に触れ、何かを受け取った者だけが知る深層の“知”――それは時に、理性を喰らう。


 「私は、神の存在を肯定も否定もしない。ただ、神というものは、“人間が到達してはならない視点”を持つ存在なのよ。だから、祈ることは常に――世界にとって危険なの」


 ミリカは包帯の奥の目を、イグノに向けるように、ゆっくりと顔を上げた。


 「……でもあなたは、まだ祈る。なぜ?」


 その問いに、イグノは静かに答えた。


 「祈らなければ、“世界を壊した責任”すら感じられないからだ」


 ミリカの唇が、かすかに震えた。

 その瞬間だけ、彼女の内側にある“救いを望む何か”が顔を覗かせたように見えた。



 ミリカは、神の声を聞く“器”。

 イグノは、神に祈る“鍵”。

 2人が手を結ぶことは、世界に対する最大の“挑発”に等しい。


 聖堂の地下、封じられた神託室にて、イグノはミリカと向かい合っていた。

 かつて神の声が記録されていた《共鳴石板》はひび割れ、光すら通さない。

 だが、それでもこの部屋は――“何か”を通してしまう構造を維持していた。


 「ここから……声が聞こえる」


 ミリカが壁の一角を指さす。


 「そこはかつて、神の受答を記録した“聖応区画”だ。今は、呪文の痕跡すら消えたがな」


 イグノは懐から古びた銅製の“祈祷器”を取り出した。

 歪な十字を模した形状。血と灰で汚れ、魔力の共鳴すら起こさない壊れた道具。

 だが、それを使うことに意味がある。“祈り”は行為であり、形式ではない。


 「お前が“声”を聞く。俺が“問い”を投げる。それで……残っている神の座標が分かれば、俺はそこに向かう」


 ミリカは頷きかけ、しかし口を噤んだ。


 「その先にあるのは、“殺す”という行為なの?」


 「神が生きている限り、世界は解放されない」


 短く、断定のような口調。だが、その声の奥には、迷いがある。

 ミリカはその揺らぎを感じ取っていた。


 「もし私が、神と繋がっている存在なら? 私を殺すことでしか、神を殺せないとしたら?」


 沈黙。

 長い、深く突き刺さるような静寂が訪れた。


 イグノは答えなかった。否――答えを、まだ選べなかった。

 彼にとって神を殺すことは、世界を救うことではなく、自分が壊した世界に対する責任の実行でしかない。


 ミリカが歩み寄り、イグノの手を握る。

 彼女の手は細く、冷たい。けれど、それは確かな“存在”だった。


 「なら、共に行きましょう。私は、あなたの祈りの“意味”が見てみたい。……どれだけ破滅を連れてくるのかも、含めて」


 イグノはわずかに口角を歪める。それは笑いではなかった。


 「お前、死にたいのか?」


 「世界に祈るということは、もう“死に方を選ぶ”ってことなのよ」


 重く、鋭く、言葉が落ちる。


 祈る者と、祈られる者。

 神を視た者と、神を殺したい者。

 一時的な共闘に過ぎないかもしれない。

 それでも、今、道は重なった。


 その刹那――


 聖堂の天井が、震えた。

 微細な振動。何かが“呼応”している。


 イグノが祈祷器を手に取る。ミリカが目を閉じ、壁に手を触れる。


 「……神が、“こちらを視た”わ」


 「始まったな」

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