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第3話 神殿の残響、血の契約

 世界には、神殿が五つあったと言われている。

 そのすべてが崩れ落ち、燃え、呪われ、今では“禁域”として地図からも消されている。


 イグノとミリカが辿り着いたのは、その中でも最も忌まれた地――第四神殿トゥリアの口


 かつて、最後の神が“声を発した”と記録された場所。

 そしてその声が、最初の贖罪獣を生んだ。


 神殿は地下へと続く断層の奥に存在していた。

 石造りの回廊は崩れかけ、空気は土と血と魔力の腐臭に満ちている。

 足元には無数の骨。人間のものか、異形のものかも判別がつかない。


 「……この場所、まだ“生きてる”」


 ミリカが震える声で呟いた。


 「神が死んでも、神殿は死なない。むしろ、神が死んだからこそ“神殿そのものが意思を持った”とも言われてる」


 イグノの声は冷ややかだった。


 石壁に刻まれた印章が、彼の接近に反応する。

 血のような赤い光が、かすかに脈打つ。

 封印は緩んでいた。彼らを待っていたかのように。


 「ここに、神の“契約核”が残されている。祈りが届いた先の――応答装置だ」


 「あなた、触れる気なの?」


 「触れるしかない。それが、“神を殺す座標”に繋がる唯一の方法だ」


 ミリカは立ち止まった。包帯越しの目が、苦悶に歪む。


 「……もし、それに触れてしまったら。あなたはもう、人間ではいられない」


 イグノはそれを聞いて、薄く笑った。

 乾いて、痛みを伴う表情だった。


 「俺はもう、ずっと前から人間じゃない」


 そのまま彼は、封印の中心へと足を踏み入れる。

 そこには、巨大な《|契約器官《コル・エルア》》が眠っていた。


 脈打つ肉のような構造物。

 祈りを受け取り、契約を刻み、世界に“神の意志”を還流させる中枢器官。

 もはや装置というより、意志を持つ臓器だった。


 イグノが手をかざす。

 器官が震え、彼の血に共鳴する。かつて祈った者として、彼の存在を“覚えている”。


 「……応じろ。“責任”を返しに来た」


 その瞬間、神殿全体が悲鳴のように揺れた。

 血の契約が始まる。神の“残響”が蘇る。

 ミリカが口元を押さえ、膝をつく。頭の中に“声”が流れ込んでくる。


 ≪――セラ・ミ・ノル……返還ヲ……受理……カ……≫


 イグノの手の平に、赤黒い印が刻まれる。

 それは、祈りの逆流。契約を返すことで、新たな契約を強制されるという、かつて祈祷師たちが最も恐れた現象だった。


 「……これが、“血の契約”」


 もう後戻りはできない。

 この瞬間、イグノは“再び祈る者”になったのではない。

 ――“神の血を持つ者”に変わったのだ。



 ――“祈る者よ、問いに答えよ”


 その言葉は、音ではなかった。

 血に直接流れ込むように、イグノの脳に刻まれた。


 神の血を得たことで、神殿は彼を“応答対象”と認識した。

 そして今、彼に“試問”を与える。

 それこそが、贖罪獣との接触儀式リトゥア・アスフェリウム


 空間が歪んだ。

 神殿の奥、何もなかったはずの空間が、内側から裂けるように開く。


 そこから“それ”は現れた。


 贖罪獣――否、問いの獣クァエル

 神が人に“答えを求める”ために創られた、最も異質な存在。


 四肢はあったが動かない。浮遊している。

 皮膚は剥がれ落ち、剥き出しの神経が空間に漂っている。

 顔はなかった。ただ、胸部の中心に開いた“口”が、言葉を“問う”ためだけに存在していた。


 ≪――罪トハ、何ヲ意味スル?≫


 “それ”は、問うた。


 イグノの呼吸が乱れる。脳の中に直接問いが響き、感情すら翻弄される。

 ミリカは遠くで膝をつき、吐血していた。接続されている彼女にも、問いが届いているのだ。


 ≪――罪トハ、誰ノ責任カ?≫


 第二問。

 問われているのは知識ではない。存在そのもの。

 “お前は何を罪と呼ぶのか”“誰を赦すのか”――祈りの本質を、逆から穿つ問い。


 イグノの額から汗が噴き出す。

 背中の神罰印がうずく。祈れば答えられる、だが――それはまた“贖罪”を引き寄せる行為だ。


 ≪――神ハ死ンダ。祈ル理由ハ、マダ在ルカ?≫


 最後の問い。


 イグノは口を開いた。

 だが、声ではなく、血で応えた。

 右の掌を噛み切り、血を契約核に押しつける。


 「祈る理由はもうない。だが、祈りの“責任”がまだ終わっていない。だから俺は答える。……俺が罪だ。俺が祈った。それで世界が壊れた。なら俺が“世界に祈られる側”にならなきゃ、割りに合わないだろう」


 沈黙――そして、承認。


 贖罪獣の身体が砕けた。

 その破片が、空中に光の文字として漂う。


 ≪回答、受理。座標、送信≫


 空間に浮かぶ一枚の印章図――それは、“神の在処”を示す地図だった。

 神は、まだいる。あるいは、“神の模倣体”が残されている。

 どちらにせよ、それは“殺す”ための対象となった。


 イグノがよろめきながら立ち上がる。

 その目に宿るのは、恐怖でも使命感でもない。


 ――ただ、静かな“責任感”だった。


 背後で、ミリカがかすかに笑った。


 「……やっぱりあなた、“世界に選ばれて”るわ」


 「選ばれたなら、それを呪うまでさ」



 神の座標を受け取ったその瞬間から、イグノの身体に異変が生じていた。

 背中の神罰印が膨張し、皮膚の下を這うように広がる。

 血管が赤黒く脈打ち、時折、思考が“誰かの声”と重なる。


 それは、神の残響。契約核に触れたことで、“神の回線”に繋がってしまったのだ。

 このままでは、いずれ彼の意識は“神の通路”として上書きされてしまう。

 その運命を拒絶するには――反転が必要だった。


 「イグノ、あなた……“反転祈祷”を使うつもり?」


 ミリカの声には、恐怖が混じっていた。

 それはただの禁忌ではない。

 神への祈りを、神に対する攻撃に転じる儀式――かつてそれを行った祈祷師は、例外なく全員“存在”を消された。


 「もう、受け取る側じゃいられない。俺は、“返す”側になる」


 神に贈る祈りではなく――神から“奪う”祈り。

 それが、反転祈祷アクス・レヴィア


 イグノは、契約核の前に立つ。

 印章を逆に描き、祈祷語を後ろから逆唱する。

 血ではなく“灰”を使い、魂を込めるのではなく“空洞”を捧げる。


 「アノ・キトゥ・ロ・エル……エル・ロ・キトゥ・アノ」


 祈りの意味が、反転する。

 “救ってくれ”ではなく、“お前を否定する”。


 神との通信が、断絶され、逆流を起こす。

 神の力が、神の構造を破壊するために用いられる――それはまさに、神殺しの理論化だった。


 ミリカが膝をつく。


 「……聞こえる。神が、怒っている」


 空間が歪む。神殿の壁面から血のような液体が滲み、崩れた石碑が断末魔のような音を立てる。

 契約核が、脈動を止めた。


 イグノの胸に刻まれた紋章が反転し、十字が“鉤”に変わる。

 それはもはや祈祷師の印ではなかった。

 神を罰する者――“破戒者イレギュラー”の証だった。


 「……これで、殺せる。神を、祈りそのもので――殺せる」


 そう言ったイグノの声は、どこか遠く、別の誰かが語っているようだった。


 ミリカは、その姿にかすかな恐怖を覚えていた。

 だがそれ以上に、理解していた。


 ――この男は、既に人の側には立っていない。

 それでも、まだ“祈る”という行為に執着している。

 ならばきっと彼は、神ではなく、人間の側から神を否定するのだと。





 反転祈祷が完了したその夜、イグノは激しい発熱に襲われた。

 肌は焼けるように熱く、骨の一つ一つが軋みを上げる。

 体内の血が、異なる“律”で動き始めていた。


 ミリカが薬草を煎じた水を口元に運ぶが、イグノの喉はそれを拒む。

 吐き出された水は、黒かった。


 「これは……神経の“汚染”……」


 ミリカが震える声で呟く。


 反転祈祷は神の構造を内側から破壊する。

 だがそれは同時に、“祈った者自身”の存在構造すら侵すものだった。


 夜の間中、イグノの身体は痙攣し続けた。

 背中の神罰印は、もはやただの痣ではなかった。

 意志を持つ図形ルーンが、彼の皮膚を喰らうように広がっていく。


 その紋様は、既知のどの神聖記号とも異なっていた。

 それはまるで――“神殺しの権利”を証明するための呪印。


 明け方。

 イグノがようやく目を開けたとき、彼の視界には、奇妙な現象が映っていた。


 空間の“歪み”。

 世界のひび割れ。

 彼は今、神の視界の一部を共有している。


 「……視えてしまうな。もう、人の世界が」


 そう呟いた彼の声は、かすかに“共鳴”していた。

 誰かが同時に語っているように。

 否、何かが彼の中に棲み始めた。


 ミリカがそっと背中を確認する。

 そこには、全ての神罰印を反転させた“第十の刻印”が完成していた。


 「……第十印。これが刻まれた祈祷師は、神に“取り込まれる”はずだった。でも今のあなたは、取り込まれるのではなく――切り離されてる」


 イグノは立ち上がった。

 足元がぐらつく。けれど、決意は崩れていなかった。


 「これで、ようやく“奴ら”の座標に手が届く。俺の命も、世界も、神も――全部、秤にかけてやる」


 その背には、“祈り”の象徴であった外套はもうない。

 代わりに黒く変色した皮膚の上に、罪と罰を兼ね備えた十の印が刻まれていた。

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