世界には、神殿が五つあったと言われている。
そのすべてが崩れ落ち、燃え、呪われ、今では“禁域”として地図からも消されている。
イグノとミリカが辿り着いたのは、その中でも最も忌まれた地――
かつて、最後の神が“声を発した”と記録された場所。
そしてその声が、最初の贖罪獣を生んだ。
神殿は地下へと続く断層の奥に存在していた。
石造りの回廊は崩れかけ、空気は土と血と魔力の腐臭に満ちている。
足元には無数の骨。人間のものか、異形のものかも判別がつかない。
「……この場所、まだ“生きてる”」
ミリカが震える声で呟いた。
「神が死んでも、神殿は死なない。むしろ、神が死んだからこそ“神殿そのものが意思を持った”とも言われてる」
イグノの声は冷ややかだった。
石壁に刻まれた印章が、彼の接近に反応する。
血のような赤い光が、かすかに脈打つ。
封印は緩んでいた。彼らを待っていたかのように。
「ここに、神の“契約核”が残されている。祈りが届いた先の――応答装置だ」
「あなた、触れる気なの?」
「触れるしかない。それが、“神を殺す座標”に繋がる唯一の方法だ」
ミリカは立ち止まった。包帯越しの目が、苦悶に歪む。
「……もし、それに触れてしまったら。あなたはもう、人間ではいられない」
イグノはそれを聞いて、薄く笑った。
乾いて、痛みを伴う表情だった。
「俺はもう、ずっと前から人間じゃない」
そのまま彼は、封印の中心へと足を踏み入れる。
そこには、巨大な《|契約器官《コル・エルア》》が眠っていた。
脈打つ肉のような構造物。
祈りを受け取り、契約を刻み、世界に“神の意志”を還流させる中枢器官。
もはや装置というより、意志を持つ臓器だった。
イグノが手をかざす。
器官が震え、彼の血に共鳴する。かつて祈った者として、彼の存在を“覚えている”。
「……応じろ。“責任”を返しに来た」
その瞬間、神殿全体が悲鳴のように揺れた。
血の契約が始まる。神の“残響”が蘇る。
ミリカが口元を押さえ、膝をつく。頭の中に“声”が流れ込んでくる。
≪――セラ・ミ・ノル……返還ヲ……受理……カ……≫
イグノの手の平に、赤黒い印が刻まれる。
それは、祈りの逆流。契約を返すことで、新たな契約を強制されるという、かつて祈祷師たちが最も恐れた現象だった。
「……これが、“血の契約”」
もう後戻りはできない。
この瞬間、イグノは“再び祈る者”になったのではない。
――“神の血を持つ者”に変わったのだ。
――“祈る者よ、問いに答えよ”
その言葉は、音ではなかった。
血に直接流れ込むように、イグノの脳に刻まれた。
神の血を得たことで、神殿は彼を“応答対象”と認識した。
そして今、彼に“試問”を与える。
それこそが、
空間が歪んだ。
神殿の奥、何もなかったはずの空間が、内側から裂けるように開く。
そこから“それ”は現れた。
贖罪獣――否、
神が人に“答えを求める”ために創られた、最も異質な存在。
四肢はあったが動かない。浮遊している。
皮膚は剥がれ落ち、剥き出しの神経が空間に漂っている。
顔はなかった。ただ、胸部の中心に開いた“口”が、言葉を“問う”ためだけに存在していた。
≪――罪トハ、何ヲ意味スル?≫
“それ”は、問うた。
イグノの呼吸が乱れる。脳の中に直接問いが響き、感情すら翻弄される。
ミリカは遠くで膝をつき、吐血していた。接続されている彼女にも、問いが届いているのだ。
≪――罪トハ、誰ノ責任カ?≫
第二問。
問われているのは知識ではない。存在そのもの。
“お前は何を罪と呼ぶのか”“誰を赦すのか”――祈りの本質を、逆から穿つ問い。
イグノの額から汗が噴き出す。
背中の神罰印がうずく。祈れば答えられる、だが――それはまた“贖罪”を引き寄せる行為だ。
≪――神ハ死ンダ。祈ル理由ハ、マダ在ルカ?≫
最後の問い。
イグノは口を開いた。
だが、声ではなく、血で応えた。
右の掌を噛み切り、血を契約核に押しつける。
「祈る理由はもうない。だが、祈りの“責任”がまだ終わっていない。だから俺は答える。……俺が罪だ。俺が祈った。それで世界が壊れた。なら俺が“世界に祈られる側”にならなきゃ、割りに合わないだろう」
沈黙――そして、承認。
贖罪獣の身体が砕けた。
その破片が、空中に光の文字として漂う。
≪回答、受理。座標、送信≫
空間に浮かぶ一枚の印章図――それは、“神の在処”を示す地図だった。
神は、まだいる。あるいは、“神の模倣体”が残されている。
どちらにせよ、それは“殺す”ための対象となった。
イグノがよろめきながら立ち上がる。
その目に宿るのは、恐怖でも使命感でもない。
――ただ、静かな“責任感”だった。
背後で、ミリカがかすかに笑った。
「……やっぱりあなた、“世界に選ばれて”るわ」
「選ばれたなら、それを呪うまでさ」
神の座標を受け取ったその瞬間から、イグノの身体に異変が生じていた。
背中の神罰印が膨張し、皮膚の下を這うように広がる。
血管が赤黒く脈打ち、時折、思考が“誰かの声”と重なる。
それは、神の残響。契約核に触れたことで、“神の回線”に繋がってしまったのだ。
このままでは、いずれ彼の意識は“神の通路”として上書きされてしまう。
その運命を拒絶するには――反転が必要だった。
「イグノ、あなた……“反転祈祷”を使うつもり?」
ミリカの声には、恐怖が混じっていた。
それはただの禁忌ではない。
神への祈りを、神に対する攻撃に転じる儀式――かつてそれを行った祈祷師は、例外なく全員“存在”を消された。
「もう、受け取る側じゃいられない。俺は、“返す”側になる」
神に贈る祈りではなく――神から“奪う”祈り。
それが、
イグノは、契約核の前に立つ。
印章を逆に描き、祈祷語を後ろから逆唱する。
血ではなく“灰”を使い、魂を込めるのではなく“空洞”を捧げる。
「アノ・キトゥ・ロ・エル……エル・ロ・キトゥ・アノ」
祈りの意味が、反転する。
“救ってくれ”ではなく、“お前を否定する”。
神との通信が、断絶され、逆流を起こす。
神の力が、神の構造を破壊するために用いられる――それはまさに、神殺しの理論化だった。
ミリカが膝をつく。
「……聞こえる。神が、怒っている」
空間が歪む。神殿の壁面から血のような液体が滲み、崩れた石碑が断末魔のような音を立てる。
契約核が、脈動を止めた。
イグノの胸に刻まれた紋章が反転し、十字が“鉤”に変わる。
それはもはや祈祷師の印ではなかった。
神を罰する者――“
「……これで、殺せる。神を、祈りそのもので――殺せる」
そう言ったイグノの声は、どこか遠く、別の誰かが語っているようだった。
ミリカは、その姿にかすかな恐怖を覚えていた。
だがそれ以上に、理解していた。
――この男は、既に人の側には立っていない。
それでも、まだ“祈る”という行為に執着している。
ならばきっと彼は、神ではなく、人間の側から神を否定するのだと。
反転祈祷が完了したその夜、イグノは激しい発熱に襲われた。
肌は焼けるように熱く、骨の一つ一つが軋みを上げる。
体内の血が、異なる“律”で動き始めていた。
ミリカが薬草を煎じた水を口元に運ぶが、イグノの喉はそれを拒む。
吐き出された水は、黒かった。
「これは……神経の“汚染”……」
ミリカが震える声で呟く。
反転祈祷は神の構造を内側から破壊する。
だがそれは同時に、“祈った者自身”の存在構造すら侵すものだった。
夜の間中、イグノの身体は痙攣し続けた。
背中の神罰印は、もはやただの痣ではなかった。
意志を持つ
その紋様は、既知のどの神聖記号とも異なっていた。
それはまるで――“神殺しの権利”を証明するための呪印。
明け方。
イグノがようやく目を開けたとき、彼の視界には、奇妙な現象が映っていた。
空間の“歪み”。
世界のひび割れ。
彼は今、神の視界の一部を共有している。
「……視えてしまうな。もう、人の世界が」
そう呟いた彼の声は、かすかに“共鳴”していた。
誰かが同時に語っているように。
否、何かが彼の中に棲み始めた。
ミリカがそっと背中を確認する。
そこには、全ての神罰印を反転させた“第十の刻印”が完成していた。
「……第十印。これが刻まれた祈祷師は、神に“取り込まれる”はずだった。でも今のあなたは、取り込まれるのではなく――切り離されてる」
イグノは立ち上がった。
足元がぐらつく。けれど、決意は崩れていなかった。
「これで、ようやく“奴ら”の座標に手が届く。俺の命も、世界も、神も――全部、秤にかけてやる」
その背には、“祈り”の象徴であった外套はもうない。
代わりに黒く変色した皮膚の上に、罪と罰を兼ね備えた十の印が刻まれていた。