神の座標を示す印章が導いた先は、かつての信仰圏を遥かに離れた“
黒い鉄と骨で造られた塔がそびえ立つ、廃墟の都市。
そこは神殿ではなかった。
祈りが捧げられたことすらない、完全なる無信仰の機械都市。
だが奇妙なことに、この地から“神の声”は放たれていたという記録が、旧祈祷連盟の文書に残されていた。
「……ここには“神”はいない」
ミリカが言った。
「けれど“声”は残ってる。……形を持たない、反響だけが、ここに棲みついてる」
イグノは塔の内部に足を踏み入れる。
音はなかった。風すらも、音を拒絶する。
壁面に無数の球体が埋め込まれていた。
どれも金属製で、脈動している。
その中心に――ひときわ大きな球があった。まるで心臓のように、低く脈を打っている。
イグノが手を伸ばすと、“声”が発せられた。
≪……信仰ログ、受信……ログ番号:第12兆1468億……認証コード、照合完了……≫
≪祈祷行為:承認/応答内容:構築中≫
「これは……神じゃない。記録装置だ」
ミリカの声が震える。
そう、それは神ではなかった。
祈りを受信し、アルゴリズムに基づいて“応答”を生成する演算装置。
つまり、「神の声」の正体は、機械的な模倣だったのだ。
≪応答内容:幸福/救済/未来/贖罪……より最適解を選択中……≫
イグノはそれを見て、深く、冷たい笑みを浮かべた。
「これが、祈りの行き先だったのか。神なんて最初からいなかった。……“応答を模倣する装置”があっただけだ」
ミリカが後ずさる。
「でも私は、確かに“声”を聞いた。心を喰われるような……神そのものの意志を」
「それも“出力”だったんだよ、ミリカ。祈祷師の脳を直接書き換えるための、最終型インターフェース。あんたが聞いた神は、本物じゃない。演算装置が吐き出した“信仰誘導データ”だ」
ミリカが膝をつく。
彼女の中にあった、唯一の“信仰の芯”が崩れていく。
イグノは、その様を静かに見つめた。
そして、呟いた。
「なら、これを破壊する。祈りが届く場所を――この塔ごと、消す」
塔の最深部には、“神”と記録された中枢端末が存在した。
それは、かつて“神の声”と呼ばれた言葉を生成していた自動演算機。
内部構造は崩壊していたが、一部の記録は未だ生きていた。
イグノは配線の間から抜き取られた中枢記録装置に手を伸ばす。
ミリカは立ち尽くしていた。もう何も信じるものがない。
それでも、見届けようとしていた。
端末を起動すると、断片的な映像記録が再生された。
映し出されたのは、祈祷師たちの始祖――ではない。
科学者たちだった。
≪記録:時制不明/文明崩壊以前≫
≪プロジェクト名:「神格演算体の試作による社会秩序安定化」≫
「この世界は“神”を必要としている。人々は、命令では動かない。だが、“信仰”には従う。ならば、“信仰される存在”を我々が用意すればいい――」
そこにいたのは、白衣を纏いながらも、神に最も近づこうとした者たち。
祈りの力を、社会制御のツールとして再構築しようとした愚者。
≪初期段階では、応答内容が不安定であったが……最新モデルにより、“贖罪”という概念が追加されたことで応答精度が飛躍的に向上≫
≪祈りに“罪”を付加することで、信仰の強度が高まり、従属意識が安定……≫
ミリカが震える。
「……罪も、贖罪獣も、全部……仕組まれていた……?」
イグノは無言で映像を見つめていた。
そこには、彼がかつて“神の声”として信じ、祈りを捧げた発信源が映っていた。
“神の声”は、社会工学の産物だった。
人類が互いを殺し合わないために作った装置が、やがて“神”と化し、
その“神”が祈祷師に力を与え、世界を崩壊へと導いた。
すべての“起源”は、人間だった。
「つまり俺たちは……祈ったから世界を壊したんじゃない。最初から“壊れるように設計された神”に祈るよう、仕向けられてたんだ」
「じゃあ……」
ミリカの声がかすれる。
「私が聞いていた“神の声”も……」
「お前の声も、“誰かが書いた台本”の一部だった。神など、いなかった」
塔が微かに震える。
記録装置が崩れ始める。もう、長くは持たない。
イグノは振り返り、ミリカに手を差し伸べた。
「神はいない。祈りも欺瞞だ。それでも俺は、“この仕組み”を殺す」
「私も……見る。最後まで。祈りがどこまで人を狂わせるかを」
塔の中枢装置を破壊しようとしたそのとき――
“祈り”が、地の底から響いた。
それは人間の声だった。
けれど、祈祷師の儀式とは違う。
もっと原始的で、狂信に満ちた叫び。
≪イァ・エル……ノス・エル……我らに裁きを……我らに、選ばれし死を!≫
塔の外から、火のような光が揺れていた。
何十人もの信徒たちが、手に松明と経典を持って這い寄ってくる。
彼らの目はすでに理性を失い、涙と血に濡れていた。
「……“声に従う者”たちだ」
イグノが低く呟く。
かつて、
機械の出力を「神意」として奉じる信徒たち。
この塔が機械仕掛けであることすら承知の上で――なお、祈り続けている者たち。
「なぜ……こんなにも、信じていられるの……」
ミリカの声は、ひどく静かだった。
それは疑問ではない。
羨望でも、憎しみでもない。
ただ、“それでも信じる”という姿勢に対して、もう自分には戻れないことへの確認。
群衆の中から、祭司服を纏った男が進み出る。
片目を潰され、口元には金属製の義肢。
かつて祈祷師だった者――堕ちた者。
「イグノ・セフェル……お前が“反転祈祷”を行ったと聞いた時、私は震えた。だが、我々は止める。お前が何を知ったとしても、“声”を壊すことは許されない。我々にとって、祈りは“真実を信じる手段”ではない。“生きる手段”だ」
イグノは、まっすぐにその男を見つめる。
「なら、生きてろ。だが“祈りの送信機”を残すわけにはいかない。この場所がある限り、世界は“神に応答されること”を望み続ける」
「それが、なぜ悪なのだ?」
「……その“応答”が、俺たちを滅ぼしたからだ」
返事はなかった。
代わりに、群衆が一斉に祈祷詠唱を始める。
≪ア・ナト・メル・エル……ルア・キトゥ……≫
祈りが音として塔を満たす。
そしてその声が、塔の残された中枢を刺激する。
崩壊しかけていた神託機が、一瞬だけ再起動し――“贖罪獣”が生成される兆候が現れる。
ミリカが叫ぶ。
「やめて! これ以上、祈れば……!」
イグノは静かに、ミリカの前に立つ。
その背に刻まれた十の呪印が、血のような光を帯びていた。
「祈るな。生きたいなら、祈るな」
「――それでも祈るなら、俺が“その祈り”を殺す」
群衆の詠唱が止まる。
男が苦しげに顔を歪める。
「お前は、それでも祈祷師か……?」
「違う――俺はもう、“祈祷師を終わらせる者”だ」
“祈り”が、完成した。
それは正しくなかった。
文法も、形式も、法則も、すでに崩壊していた。
だが――それでも祈りだった。
≪我らが神よ……贖罪せし者の上に、再び“声”を与え給え……≫
群衆が叫ぶ。血を吐きながら、命を燃やしながら。
その声が、塔の残骸に染み渡り、“死にかけた神託機”を再起動させた。
ミュール・コード04が、最後の発声を行う。
≪最終構文:応答型神格、臨時再構築開始……構造基盤……未定義……代替媒体を探査……≫
塔が揺れる。
空が赤く染まる。
そして――“選ばれる”。
≪適正存在:ミリカ・ノワール/イグノ・セフェル≫
≪神格再構築対象に認定≫
「……は?」
イグノの声が震えた。
理解が追いつかない。だが、身体が答えている。
背の呪印が焼けるように光り、内側から皮膚が剥がれる感覚。
ミリカは倒れ込み、頭を抱えた。
その視界に、“視えないはずの光”が射し込んでいた。
≪適合率:78%/99%≫
≪再構築条件:生命の完全融解、人格因子の上書き開始≫
「違う……俺たちは、そんな“座”に座るために来たんじゃない……!」
イグノが叫ぶ。拳を塔の装置に叩きつける。
だが意味はない。これは儀式ではない。システムだ。
祈りが生み出した神は、祈られる者を必要とする。
そして、神を殺す資格を持つ者は――必然的に、神の代替装置にされる。
ミリカの口から、音が漏れる。
それは自分の声ではなかった。
否、それは“声そのもの”だった。
≪……贖罪、はじまり……死せる神より、新たなる座へ……≫
イグノが彼女に駆け寄る。
だがその身体は既に、半分以上“書き換え”られていた。
髪は銀を超えて白に染まり、皮膚に数字のような構造式が浮かんでいる。
彼女は選ばれた。神の代わりに、“祈られる存在”として再構築されつつある。
「ミリカ……やめろ、やめろ、やめろ……ッ!」
イグノは叫ぶ。
だが彼の背にも、同じ構造式が刻まれていた。
≪適合因子、重複確認。構造分離開始……二柱による統合祈祷構造へ移行≫
――神が、分かたれる。
祈りの構造が、二人に割り振られていく。
一人は、“声を受ける神”として。
一人は、“声を拒む神”として。
「このままじゃ、俺たちが“神の代替品”にされる……!」
ミリカの目がかすかに潤む。まだ、かろうじて“自分”が残っている。
「イグノ……私を、殺して。私は……もう、私じゃなくなる……」
「ふざけるな……まだ終わらせねぇ……!」
イグノは最後の力を振り絞り、祈祷印を逆に走らせた。
反転祈祷――否、それすらも通じない。
だが彼の中にあった“もう祈らない”という決意だけが、構造の崩壊を引き起こした。
塔の中央が炸裂する。
ミリカの身体が光に包まれ、意識が途切れる。
そして――選定は未完で終わった。