蝙蝠のような翼を広げる、赤いドラゴン。その幅は十メートル近い。尻尾を伸ばして滞空するその姿は、縦に長い十字架を思わせる。
だが、ラハンは怯まない。蒼い炎を纏った剣を握り締め、一歩一歩近づいていく。盾で全身を隠し、慎重に。
ドラゴンは、鋭利な牙が並んだ大きな口を開き、炎を滴らせる。その視線の先には、金髪の少女。
ラハンが駆け出した。魔法によって肉体を強化することで、鎧を装備して猶、馬の
その速さで、間に割って入る。盾を中心に防壁を生成し、吐き出された火球を受け止めた。
「大事ないか」
「は、はい!」
少女は黄金の瞳から涙を流し、少し痛んだ髪の毛を振りながら逃げ出した。それを確認し、ラハンは切っ先を龍に向けた。背後には崩れた家。瓦礫の下から血が流れ出ている。
「
剣先から、蒼い炎の矢が飛翔する。擦過傷と僅かな火傷を残したのみ。だが、それでよかった。ドラゴンの意識を引き付けられれば。
「俺に任せるんだ! 逃げろ!」
ドラゴンの影の中で、必死に銃やクロスボウの引き金を引く者たちに、ラハンはそう言った。はっきり言って邪魔だが、そこまで言わない冷静さが彼にはあった。
足手纏いが離れた。そこで、彼は脚に魔力を込める。しゃがみ込んでから、跳躍。弾丸のようなスピードで突っ込み、右の翼を斬り落とした。落下を始めた二つの肉体の内、龍の方は長い尾をしならせて騎士を弾き飛ばした。
「ラハン!」
怪我人に治癒魔法を使っていたサーデルが叫ぶ。青銀の鎧が納屋に落下した。
「大丈夫だ」
兜の下から、くぐもった声でラハンは答えた。飛行を諦めたドラゴンが、畑の上に降り立っている。それを認めつつ、彼は背中に鈍い痛みを感じていた。
再び剣に蒼い炎を灯す。盾で体を隠す。じりじりと、龍に近づく。
熱気を口から漏らしたドラゴンは、炎を極限にまで圧縮した、所謂熱線を放った。直径数センチの、細い熱の塊だ。それが高速で盾に達し、黒い点を生み出す。防御魔法の展開は着弾と同時。だが、いつまで耐えられるか、ラハンにさえわからなかった。
幸運にも、熱の暴力は十秒ほどで終わった。今こそ好機と見て、彼は一気に踏み込んだ。剣を高い所で寝かせ、刃が纏う炎を一層燃え盛らせる。
「
剣は鱗を断ち、頭蓋を裂く。そして脳に達し、反対側の骨を切り開いて抜けた。その直後、龍の頭に打ち込まれた炎の楔が爆ぜ……首から先を消し飛ばした。
龍──魔物の類は、高い再生能力を有する。それを阻害するために有効なのは、神聖なる蒼い炎の力だ。低級の魔物なら魔力が尽きるまで殺し続けることで斃せるが、ドラゴンともなるとそうはいかない。故に、教会騎士が必要なのだ。
動かなくなったドラゴンが、どくどくと黒い血を流しながら倒れる。風圧によろめくこともなく、ラハンは剣を納めた。
「す、すごい……」
物陰から戦いを見ていた村人たちが、異口同音に零す。ラハンはそれらを意に介さず、戦場から少し離れた場所にいる友人に近づいた。
「サーデル、怪我人は」
「大体は街の病院に運ばせた。だがよ……何人か、間に合わなかった」
サーデルは拳と唇を震わせる。
「市長に報告をしに行こう。きっと、聖骸を分けてくれる」
親友の背中を叩き、ラハンは街に向かった。
「──なるほど」
市長の執務室で、禿頭の長はそう呟いた。
「ドラゴンの脅威を取り除いてくれたことには、心より感謝申し上げます。そして、少なからぬ方々の命を救ってくださったことも。ですが、聖骸は……」
「魔王が復活すれば、魔物の活動はより激しくなります。今回は一頭の龍、それも新米たる私一人で対処できる程度でしたが、より強い龍が現れる可能性もあります。どうか、譲っていただけないでしょうか」
市長は苦い顔をする。腕を組み、呻く。事実を事実として受け止める理性が働く。ドラゴン退治の英雄の願いを突っ撥ねたとなれば、それはそれで問題となるだろう。
「あまり悠長に話し合う時間もないでしょうね……わかりました。左腕をお譲りします。教会領に送らせます。それでよろしいですね?」
ジヅルと教会領を結ぶ定期便には、必ず経験を積んだ教会騎士が同乗する。大砲もある。運搬に問題はない。
「念のため、聖骸を切っているところを見せてほしいんすけど……いいっすか?」
「構いません。どうぞ、こちらへ」
ジヅルで生まれた勇者、ダズルサードの遺体は、政府庁舎の地下に安置されていた。ランタンの灯で暗く冷たい階段を下り、黒い大理石の扉を開く。
甘い香の焚かれた部屋の真ん中に、一つの遺骸が横たわっていた。白い布がかけられ、性別は窺えない。
「ダズルサード様です」
遺骸は腰ほどの高さの台に乗っており、その横には大きな斧が置かれている。
「私には、これを振るう力はありません。その手で、どうか」
布を一部捲った市長に促され、ラハンが斧を握った。剣よりもずっと重く、狙いを定めるのも難しい。だが、彼は一撃で勇者の左腕を切断した。死後千年の時を経ても、その遺骸は血を噴出させた。
すぐにサーデルが駆け寄って、傷口に手を翳す。暖かな光がそこから放たれて、傷を塞いだ。
「……生きてるみてえだ」
そう、呟いた。
さて、二人は騎士館に左腕を預け、次の目的地に向かう用意をしていた。
「まずはカマ王国だろ?」
「ああ。ニバイ帝国の皇帝は、かなり強硬と聞く。多少の手柄では聖骸を譲ってはくれないだろう。だから確実性の高いカマからやろう」
荷物の点検を終え、騎士館を後にする二人。その前に、小さな人影が止まった。少女。背丈は百四十センチほどで、腕も脚も細い。金色の目と、後ろで一つに纏めた金髪が目立つ。
「……村の娘か?」
確か、庇った子供がこんな見た目だった──ラハンは朧げな記憶を掘り起こしていた。
「覚えていてくれたんですね! 私はインサ。駆け出しの魔法使いです」
「そうか。励むといい」
それだけ言って彼は横を通ろうとする。しかし、インサがまた前に出てきた。
「あの、旅をされてるんですよね。弟子にしてください!」
「……は?」
「私、ドラゴンの一件で両親が死んで。だから、雑用でも何でもするので、近くに置いてほしいなあ、って……」
思いもしない提案に、彼は友人の顔を見る。敢えて見ないふりをしていた。
「俺は新米だ。弟子を取るには早すぎる」
「でもでも! ドラゴン倒せるじゃないですか!」
振り払おうと歩き出した彼に、少女は何度も追いついては、顔を覗き込む。
「その体格では騎士にはなれないぞ」
「魔法のことだけでいいですから!」
剣術を主軸としない、魔法に特化した教会騎士もいる。サーデルも、医療方面の魔法を身に着けたそういう騎士の一人だ。
「……まずはどれほど使えるか見る。サーデル、少し付き合ってくれ」
北の城門を抜け、焼けた村に戻ってくる。既に学生や軍人、聖職者が入って、炊き出しなり瓦礫の片付けなり、救援活動を行っていた。サーデルもそれに加わろうとしたが、すぐに断られて戻ってきた。
「十分やってくれたからいいってさ。んで、どこで試すんだ」
「インサ、だったか。君の家はどこにあった」
彼女は更地を指差す。
「そこを使おう」
インサから少し離れて、ラハンは盾を構える。
「盾を狙って何か魔法を使ってみるんだ。見込みがあるなら連れていく」
彼女の両手が突き出される。その掌にチリチリと赤い稲妻が走り、やがて一条の光線となってラハンに飛ぶ。受け止めた彼は、少し押し戻された。
「どうですか⁉ 私、弟子になれますか⁉」
ラハンは少し黙っていた。威力は申し分なし。教会騎士を後退させる一撃を、独学で習得したのならそれは紛れもなく天才だ。しかし、気になることがある。
「……独学か?」
「はい!」
赤い稲妻は、人間の知る魔法体系の中で、魔族の力とされている。何故こんな少女がそれを有しているのか……。
「一緒に来るといい。君を暫く見ておきたい」
「やったー!」
飛び跳ねて喜ぶ彼女に、ラハンはそっと近づいた。
「あ、お名前聞いてませんでしたね」
「ラハンだ」
「よろしくお願いします、ラハン様!」
こうして少女を仲間に加え、三人の旅が始まった。この先に待ち受ける影の正体になど、何の思いも馳せないままに。
「だが、その前に君の出国手続きをしなければならないな」
「あ、私、文字読めますよ! しかも書けます!」
インサは薄い胸を張った。
「そうか。なら楽だな」
生まれてこの方騎士となる勉強を続けてきたラハンだが、誰もが文字を読めるわけではない現実を知っていた。
一先ずはジヅルの政府庁舎で必要な書類を書かせ、カマ王国行きのパスポートを手に入れる。その手続きの間に寝泊まりするため、再び騎士館に戻った二人は受付から怪訝な目で見られた。
「あんちゃんたち、出ていったんじゃないのかね」
「少し用事ができた」
「まあ……いいがね。女子部屋はあっちだよ」
騎士とその従者だけが許される部屋に入った時、インサは生まれて初めて柔らかいベッドというものを知った。少ない荷物を放り出して横になると、すぐに意識は溶けていったのだった。