「インサのこと、どう思う」
サーデルが、読書中のラハンに問うた。窓際の机に肘を乗せて、ゆっくりとページを捲る。
「赤い稲妻を使った。暫く監視の必要がある」
「そうじゃなくて、結構かわいいと思わねえか?」
「サーデル……」
呆れつつ、ラハンは本を閉じた。
「魔族の稲妻、か。確かにそいつは問題だな……どうする、教会に報告するか?」
「誰にも害を成してない以上無用な心配かもしれんが、万が一にも異端審問に掛けられれば、力を厳重に封印されるかもしれない。だが……」
「だが?」
「あの才能を殺すのは、忍びない。先生を通して、教会には監視処分の要請を済ませた」
サーデルが友人の肩を何度も叩く。
「やっぱお前と一緒でよかったぜ。蒼い炎の継承者ってだけでかなり楽になるからな」
「お前だって同じことをしただろうに」
ヘヘッ、と笑って見せて、彼はベッドに腰掛けて盾を磨き始めた。教会騎士は、自らを護り手と規定する。故にその象徴は剣ではなく、盾なのだ。
「もし監視処分が通らなかったら、どうするよ」
「……さあな」
窓の外に目を遣っている親友を見て、サーデルはそっと黙った。暫く、沈黙がそこに横たわる。走り回る子供が燥ぐ声。ボートの船主がぼったくりに失敗して舌打ちする光景。そういうものに、ラハンは浸っていた。
その穏やかな時間を、足音が打ち破る。
「ラハン様!」
扉を力強く開けて、インサが叫んだ。
「旅券、出ました!」
革製の、赤いケースを見せる。手帳程度のサイズであり、表面にはジヅルの名前と国章──夕陽の前を過ぎるボートの意匠が刻まれていた。
「でも、タダでもらっちゃっていいんですかね」
「教会が手を回してくれたんだ」
赤い稲妻のことは、誰にでも知られているわけではない。ラハンの師、セオドランの名前を出せば、同じ教会騎士でもそれ以上追及はしないだろう、程度のものだ。彼もあまり心配はしていなかった。
「一つ、聞いておきたい」
手招きして部屋に入れたラハンは、向かいに彼女を座らせて質問する。
「君の血筋に、魔族はいるか」
「あー……これですか」
インサが右の掌に赤い稲妻を生み出す。
「そうですよね、わかってます。母がそうらしくて」
「ヴセール教会の法では、人に化けた魔族もその子供も異端だ。だが、子供については教会の監視下での生存が許容されている。力を濫用して人々に不安を与えなければ、という条件付きではあるが。一方で……純粋な魔族でない君に、赤い稲妻でどれほどの負荷がかかるか、俺には推測できない。だから、少しずつ負荷を上げていって限界を見定める必要がある。いいな?」
インサは理解できていないようだった。
「ゆっくりトレーニングしていこうぜ、ってことさ」
サーデルの助け舟で、彼女は得心できた。
「じゃあ、出発ですか?」
「いや、教会からの返事を待ってだな。君の処遇について話し合ってもらっている」
そう言った丁度そのタイミングで、机の上の青燐盤が輝いた。中央に刻まれた円の上に、髭を生やした強面が姿を現す。
「先生!」
その者こそセオドラン。熟練の騎士である。
「インサの処遇だ。お前に監視をさせることで決定した。いいな」
「承知しました。任せてください」
「……元気か」
少し小さな声で師が言う。
「ええ。万事問題なく」
「サーデルに言っておけ。無駄な出費をするな、とな」
「聞いてるっすよ」
盾を磨きながらの声に、セオドランはほんの僅かに口角を上げた、かもしれない。
「私からは以上だ。何かあるか」
「インサの旅券は、先生が手を回してくれたのですか?」
「そうだ。弟子の旅だからな、手伝いならいくらでもする」
心からの感謝を述べるラハンの後ろで、サーデルが変な顔をしていた。慣れたことだ、とセオドランは何の反応もしなかった。ただ、インサだけが笑いをこらえていた。
「さて、新しい弟子候補との面談があるのでな。帰ってきたら稽古をつけてやってくれ」
「ええ、勿論」
「では、失礼」
映像が途絶える。
「それ、なんですか?」
インサが目を輝かせて尋ねる。
「青燐盤。簡単に言えば、遠く離れていても会話のできる装置だ」
「へー……」
ひょこひょこと動き回って、色々な角度からその青い円盤を眺めていた。
「サーデル、明後日にでも出よう」
「ルートはどうする。カマ王国までの定期便はなくなったぜ。国境だって封鎖されてる」
「北から遊牧民の草原を通って向かおう。その方がインサの訓練もできていいだろう」
「あいよ」
盾を置き、サーデルは荷物を纏め始める。散らばった服をトランクケースに詰め込み、力技で閉じる。何度か失敗して、五度目で成功。
「明後日って……急じゃないですか? 私、全然服とか鞄とかないですよ?」
「それは今から買いに行く。金は俺が出す」
「……お金、あるんですか?」
「従騎士の頃から給金は出る。遊ばなければそれなりに溜まるんだ」
イマイチ要領を得ないが、インサはとりあえず金には困らないということは理解できた。
「行くぞ」
ラハンは彼女の手を取って歩き出した。
旅装というのは、まず何より動きやすさが大事になってくる。体の動きを妨げないことは、体力の無駄な消耗を避けられるからだ。
次いで洗いやすさと頑丈さの両立だ。生地の厚い服はそれだけ丈夫だが、一方で洗った後乾くのに時間がかかる。いい塩梅の服を選ぶのは、畢竟慣れに依る所が多いだろう。
幸い、ラハンは教会領を旅した経験があり、そうした服選びには困らなかった。草木で無用な傷がつかないよう、長袖を着たうえで、しっかり足を覆う。ブーツなどを合わせるとなお良い。
結果として、インサは年頃の少女としてはあまりに地味な恰好となってしまった。上は白くて下は黒。教会騎士に同行するということで教会から与えられたマントの青が、唯一の彩だった。
「もうちょっとかわいい服ないですか?」
トランクケースを持って、服屋から出たインサは言う。
「かわいいというのはよくわからないが……大事なのは機能性だ。いつでもどこでも服が買えるわけではない」
「はあ……」
彼女は助けを求めてサーデルを見る。だが、
「旅なんだ、おしゃれなんかしてる余裕はないぜ」
と答えるだけだった。
「後は何か土産を買っていくぞ」
「お土産? もう帰る時のことを考えてるんですか?」
「草原を抜けるには、タルカ族という遊牧民に協力してもらう必要がある。そのために、何か対価を用意しなければならない」
「普段手に入らないものをあげて、手伝ってもらうってことさ」
おおっ、とインサは頷いた。
「じゃ、お土産屋さん行きます?」
「とは言っても、俺も何がいいかは知らないんだ」
「葡萄酒でも持っていくか? ホルルンの乳酒ばっか飲んでんだろうし」
「そうだな、そうしよう」
話についていけないインサも一緒に、一行は酒屋へ向かった。
カラザムでは、まだ旅行者はそう多くない。交通インフラも整っていない地域が多く、魔除けの効果を受けられない都市間の街道も、いつ魔物に襲われるかわからない。
したがって、都市の間を移動するには教会騎士や魔術師による護衛が必須だった。
そんな中でも、ジヅルのワインは最高級品として各地で取り引きされている。小金を手にした行商人や、護衛の者が故郷の家族に、と土産として買うのだ。
「タルカ族に、道案内の見返りとして贈りたい。いいものはないか」
堅い口調で、ラハンはカウンターの向こうの店員に問うた。
「贈り物ですと……九五六年のものがいいでしょう。飲みやすく、お酒に慣れていなくても飲み進めることができるかと」
「ならそれで頼む」
「ちょっと待った」
サーデルが間に入った。
「九五六年は、ここら一帯じゃ葡萄が不作だったはずだ。小さいし味もないほど」
「ほう、ご存知で……ええ、試させていただきました。紺色の方は普段お酒を飲まないでしょうからね、ちゃんと然るべき方の手に渡ってほしかった」
「気に食わねえな。で、一番いいのは九八四年。そうだろ?」
「ご名答。では、こちらを……」
瓶に入った、赤葡萄酒。安くない金額を払ってそれを手に入れた一行は、北へ向かったのだった。