魔域。それは、何らかの魔術で構成された、一般に好ましくないと思われる空間のことを指す。
本質的には、お化け屋敷のようなものだ。それが実際的な悪意を以て顕現したのが、魔域と言える。
カラザムには時折こうしたものが現れる。その発生原因は、人々の恐怖や忌避といった負の感情が、世界が持つ魔力と結びついたものであったり、人間や魔族が悪意の下に現実の空間を改変したもの乃至ゼロから空間を構築したものであったりする。
ラハン一行が平定を命じられたのは、後者と目されていた。カマ王国南部に位置する群島。その内の一つが、丸っと魔域に作り変えられてしまった。
「にしたって、増援もなしかよ」
南下する渡し舟の上で、サーデルがぼやいた。
「結局内部の調査に向かった者は、誰も相手にはしてくれなかった。内部の様子も探れないとは、思わなかったな」
「マジだよ。教会騎士に声かけても無理だったしよ」
ラハンは認めたくないことだが、駐在する教会騎士と現地の権力者は、強く結びついていることが多い。国王からの働きを受けた王都の騎士は、誰も彼らに協力しなかった。
「もうすぐじゃよ」
船頭の老人が言う。邪気を放つ島が、そこにあった。船から降りると、インサでも感じられる負のオーラが島を包んでいた。
元は人々が生活していたのだろう。船着場から住宅地に向かう街路も整備されていたが、人だけがすっぽりと抜けたような、抜け殻のような場所だった。
「死体の臭いは……しねえな」
肉の腐った臭いは感じ取れない。それは皆共有していた。
「魔域ができて、逃げだしたのだろう……」
住宅街を進むと、その道端に座っている鎧の女戦士と出会った。
「あ、あんたは──」
◆
出発の二日前。サーデルは騎士館の一室一室を巡り、滞在する騎士に協力を呼び掛けた。先述したように殆どが国王の息がかかった者であり、首を縦に振る者はいなかった。
力なく、屋敷を構えている騎士にも会いに行くことにした。今にも雨が降り出しそうな空に、サーデルは溜息を一つ。門前払いを繰り返しつつも、四軒目の屋敷で、彼は漸く迎え入れられた。
白い壁に赤い瓦を葺いたその屋敷には、三人ほどの年老いた使用人がいた。一人に案内され、最も奥の部屋に通される。
待っていたのは、眼鏡をかけた、銀灰の髪をした女騎士だ。窓際の椅子で脚を組み、机に頬杖をついて本を読んでいた。
「何の用だ」
「サーデルっていいます。魔域の平定を頼まれまして……手伝ってもらえないっすかね」
リシェリスというその女騎士は本を閉じ、立ち上がった。背丈は百七十センチほどだった。
「ああ、国王から連絡を受けている。不遜なる騎士に無理難題を押し付けた故、協力するな、とな」
「やっぱ、そうっすよね……じゃ、俺は帰るんで──」
「待て」
すごすごと引き下がろうとしたサーデルを、その凛とした声が引き留める。右手の壁には両手剣が掛けてある。
「本当に三人で向かうつもりか」
「国王陛下に言われてるんすよね。知ってますよ、騎士と現地の王様ってのは、大抵何かの繋がりがある。無理を言ってるのは俺の方です」
「そうか……」
サーデルは頭を掻いて、口を開く。
「それに、三人で成し遂げりゃあ、王様だって文句は言わねえ。やってやりますよ」
「私はリシェリス。名前を憶えておけ」
「? まあ、いいや。リシェリスさん、邪魔したな」
若き希望が去っていったのを見送って、彼女は使用人を呼び寄せた。
「もしかしたら、私が気まぐれに魔域を潰さんとするやもしれん」
「ええ、ええ。ほんの気まぐれ、ですね?」
「国王の指示も、明確な命令ではない。飽くまで頼み事だ。私の気分で好きにできる」
「ルドランにいられなくなっても、ですか?」
リシェリスは笑みを浮かべる。
「だとしても、だ」
◆
今、サーデルが呼びかけた女。それは眼鏡をかけ、銀灰の短い髪を壁に当てていた。
「あ、あんたは──」
「リシェリスだ。また会ったな」
ラハンとインサはサーデルの顔を見る。
「協力の頼みに行った騎士だよ。国王の指示で手伝えない、って……」
「教会騎士は国民ではない。従って、王の命令に忠実である必要はない。これは気まぐれだ。私が偶々魔域を潰したくなっただけだ」
リシェリスは背中に両手剣を背負っている。左肩から柄が飛び出している形だ。
「この魔域は、四つの層からなっていると思われる」
彼女は地面に手を当て、魔力で地図を刻んでいく。
「魔力探知と調査隊によって、構造そのものはある程度わかっている。地上階。これは入口だ。次いで第一層。低級の魔物がうろついている。第二層。森のような状態になっている、と報告にある。調査隊が到達したのはここまでだ」
三人は頷く。
「蒼い炎を扱える者は」
「俺が」
ラハンが手を挙げる。
「第二層の植物には蒼い炎が特別有効という報告がある。頼んだぞ」
頷く。
「ところで、君は何者だ? 純粋な人間ではないようだが」
インサを見て、リシェリスは問う。
「魔族と人間の間に生まれた子供です。ほら、こんな感じに」
と、インサは赤い稲妻を生み出してみせた。
「……なるほど。司教の言う異端とはこういうことか」
そこで咳払い。
「第三層。魔力探知を行った所、ここだけ魔力量が極めて少ない。感知できない、という見方もできる。その場合、何らかの罠である可能性もある。油断してはならない」
ジジリ、と紙を火で炙ったように、石畳に地図が描かれていく。
「第四層は、地上からはほとんど探知できない。存在だけがわかる状態だ。何か質問は」
ラハンが手を挙げる。
「第五層以降が存在する可能性はありますか」
「否定できんな」
飾らない言い方だった。
「もう一つ。何故、調査隊は第二層までしか到達できなかったのです」
「この魔域は誕生して日が浅い。強力な魔物が街に出てくる可能性を調べるかどうか、ということだけに絞って調査が行われたのだ。そのため、魔物の脅威がそうないと判断された段階で引き返した。それだけだ」
「じゃあ、なんでみんな逃げたんですか?」
インサが問う。
「……この魔域、魔剣を核としていると推測されている」
彼女は何を言っているか、とんとわからなかった。
「魔力を持った剣を核とし、そこから魔域を構築したのだ。万が一、制御の方法を知らない者の手に渡れば、尋常ならざる被害を齎し得る」
「はあ……」
「危ない武器が眠ってるから、誰にも手を出させないようにしようぜ、ってことさ」
「あ、なるほど」
リシェリスは呆れを隠さなかった。
「……まあ、いい。紺髪の、名前は」
「ラハンです」
「ラハン。もし魔剣を見つけたらくれてやる」
「え?」
彼は自分を指差して疑問の声を発する。
「魔剣は、教会に引き渡すべきではないのですか」
「お前は今の教会を信じるのか?」
これまた、ラハンは疑義を質した。
「教会は、必ずしも正しいわけではない。人間が運営している以上、何らかの間違いは必ず起こる。その上、長い歴史の中で硬直しつつある。わかるか?
リシェリスの、眼鏡の奥にある冷めきった瞳が、彼の顔を穿つようだった。
「だがな、魔剣というのは便利なものだ。相手が魔物にしろ人間にしろ、基本的に駆け引きの手札が増えることになる。それを活かさないという手は、ない」
「我々も人間です。過つ可能性はあります」
「老人たちよりは、まともな使い方ができるはずだ。そうだろう」
肯定はできない。ラハンは、目の前の女騎士が何を知ってそのようなことを言っているのか、踏み込みたくなった。だが、同時に、それによって自らが異端の道を歩むことになるのでは、という恐怖に襲われた。
「さて、もういいか?」
三人は頷く。若人にとって人生初の、魔域攻略が始まった。