第二層に名前を付けるとすれば、『穢れた森』とするのが似合うだろう。湿地のように粘着く地面と、暗緑色の黴めいたものに覆われた木。舞い落ちる葉は血のような色。呼吸すれば、肺まで侵されそうだった。
そんな中、ラハンを先頭とした一行が進む。道を塞ぐ倒木や茂みを蒼い炎で焼き払い、道を作っていた。
「汚えだけなら、それでいいんだが……」
鎧越しに鼻へ纏わりつく悪臭に顔を歪ませながら、サーデルが言った。
「なんでサーデル様も、リシェリス様も、ラハン様に頼るんですか?」
サーデルの後ろ、リシェリスの前。その位置を進むインサが問う。
「蒼い炎ってのは、先天的な素質が必要になる。その理由は色々言われちゃいるが……太陽神グレルヴァルドの力ってこと以外、詳しい所ははっきりしてねえな」
「勇者因子だ」
リシェリスが口を挟む。
「あらゆる生物は、遺伝子と呼ばれるものを持っている。これは肉体の形質を決めるものと、魂の形質を決めるものが存在しているのだ。その後者の中に、魂に勇者の力を与える因子があるのだよ」
遺伝子という言葉は、まだ一般的なものではなかった。故に、その場にいる誰も彼女の言葉を理解できていない。
「えっと……わかりやすく言ってもらえないっすかね」
「生まれついての才能というのを詳らかに説明してやっただけだ。理解できないならそれでいい」
インサとサーデルは顔を見合わせ、肩を竦めた。と、同時に。
「魔物だ!」
ラハンが声を上げる。木の上に、一見すると猿のような生物。だが緑の苔のようなものが表皮にあり、腹に開いた大きな穴から途切れた腸が垂れ下がっている。それが、群れを成している。
猿たちは、腸を握り、投げる。まるで蛇のような正確さで襲い来るそれを、盾を持つ二人が防いだ。
「こいつら、分銅鎖みたいなもんだな」
「ああ、かなりの威力がある」
盾には僅かな凹みができていた。だが、すぐに修復される。
「サーデル、守りは任せる」
そう言って、ラハンは地面を蹴った。蒼い炎を纏った剣を握りしめ、猿が逃げ出すより速く森を駆ける。やがて、その切っ先は猿の首を刎ねた。
次だ。腸を枝に巻き付けて遠心力で加速する敵へ、
この縹渺たる森にいる猿を、全て殺すようなことはできない。離れすぎたことを感じ取り、彼は三人に合流した。
だが、いるはずの者はいなかった。いや、いたのだ。骸となって。
「……サーデル?」
鎧を引き剥がされ、心臓を抉り出された親友。
「インサ?」
四肢を引き千切られた初弟子。
「リシェリスさん?」
自身の剣で腹を裂かれた先輩騎士。
「そう遠くには行ってないはずだ……何が、何が起こったんだ!」
手が震えて、剣を取り落とす。心臓が早鐘を打つ。膝をつく。それでも、それでも盾だけは保持していた。有り得ない──理性が働くまで、ほんの僅かな時間が隙になった。
「お前の弱さだ」
耳元で、昏い声が囁く。
「お前が、目を離したからだ」
心に何かが入り込んでくる。ぬるりとした、黒い腕だ。奥底に封じ込めていた後悔に触れる。あの日、独立派に殺された家族の墓参りにすら行けなかったこと。忍び出ようとしてセオドランにひどく叱られたこと。その時、師を恨んだこと。
「わかっていたさ」
呟く。
「騎士になるということは、個人の幸せの優先順位を下げるということだ、とは。そのつもりで生きているさ」
立ち上がる。
「去れ、魔よ。俺は今更振り返らない! 姿を現せ!」
そう叫ぶと、死体が蒸発するように消えた。
「クックック……思いの外強い心をしているな」
次いで現れたのは、緋色の目をした、緑の骨ばった人間。腹には大きな穴があり、そこに胎児のようなものが納まっていた。
「幻覚で俺を殺せると思うな」
「なら、真っ当に殺すのみ!」
緋眼は、肩から生えている無数の棘を伸ばし、ラハンを襲わせた。斬り落とし、盾で受け、時には鎧に任せる。そうして接近した彼は、首を狙って突きを繰り出した。
見事、刺さる。蒼い炎を送り込み、爆破。黒い体液が噴水のように散った。そこに残るのは、肩から上を失った人型だ。
だが、消えない。魔域であることを加味しても、その邪気はあまりに濃い。そしてその嫌な予感に応えるようにして、緋眼は再生を終えた。
(魔物は、心臓に当たる臓器として、魔力の核を有している)
再生の起点となる核は、必ず存在する部位だ。この緋眼なら、頭にないことは確実だ。蒼い炎を受けても再生を行うということは、それに加えて何らかの聖骸を取り込んでいる。
(そして、他の三人はどこにいる? まさか、空間そのものを隔離したのか?)
盾と剣を構え、ラハンは相手の出方を窺う。真っ直ぐ来るならそれでいい。策があるなら潰すのみ。
「焼き尽くす!」
蒼い炎を一層輝かせ、彼は誓った。
◆
「なるほどねえ」
サーデルとインサは、緋眼を前にしていた。
「空間操作系の魔術だな? それを使って、俺らを分離させた」
「随分と口が回る」
「へへっ、お喋りが好きなもんでね」
彼はインサを庇うように前へ出ていた。最前線での殺し合いは本職ではないが、訓練は積んでいる。
「インサ、お前の一撃がカギになる。いいとこでぶっ放せ」
「は、はい!」
彼の剣が、鋭利な風を纏う。
「
風の刃『虚刃』を剣の周囲に絡ませることで、切れ味を向上させ、加害範囲を増大させる。それが絡刃。教会騎士なら必ず通る道である。
緋眼が、肩の棘を伸ばす。雨のように降り注ぐそれらを弾き、サーデルは距離を詰めていく。だが、妙だ。斬れない。
ラハンほどではないにしろ、彼の魔力出力は常人のそれを遥かに上回る。斬れないものなどないと思っていた。
だとして、脚を止めて考える時間はない。踏み込み、払い、近づく。まずは動けないようにしたい。狙うなら下だ。
ヘルムの上スレスレを通り過ぎる棘を躱し、スライディング。すれ違うタイミングで左脚を切断した。その後、起き上がるのと同時に胸を刺す。一瞬動きを止めた緋眼の頭を掴み、上に投げた。
「インサ!」
「はい!」
赤い稲妻が飛ぶ。しかし、当たらなかった。
緋眼は棘を木に突き刺し、自分を引き寄せて回避したのだ。木々の間に隠れ、走り回る。
(どこから来る⁉ どこだ、どこからだ!)
動物的直観が、サーデルを動かす。とにかく走り、インサの前に立った。そこへ、棘。盾で受けると、それは広がって表面を覆った。やがて裏側にまで絡みつき、引っ張ってくる。
「やらねえよ、くそったれ!」
そう言って彼は盾を力強く引っ張った。森から緋眼が飛び出した、その瞬間。魔物の首から上が爆ぜて、大量の体液を撒き散らした。
「……そういうことか! ラハン!」
すぐさま再生を終えた緋眼は、再び森に潜んだ。
「どういうことですか?」
「多分、あいつは三つの空間に跨って存在してる。でも、その魂は一つだ。だから、蒼い炎みたいな魂に響く攻撃を受ければ、その影響が全ての肉体に及ぶんだ。つまり──インサ、お前が稲妻を当てれば全員楽になるってことだ」
自分の役割を理解した彼女は、雷の槍を握る。
「ちょいと、試したいことがある」
そんな彼女の傍で、サーデルは囁く。
「──それ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃなかった時のことは、そん時考えればいいさ」
不安げな表情を浮かべるインサは、顔の見えない相手の感情を推し量りかねる。だが、信じてみたくなった。
サーデルは盾に魔力を込め、少しインサから離れた。そのタイミングで、緋眼が来る。そして彼女は槍を投げる。その対象は、サーデルだった。