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魔域ダル=バルテ 六

「トウカ……?」


 リシェリスは、目の前にいるかつての想い人の名前を呼んだ。


「元気にしてた?」


 ひたりひたりと水を掻き分けながら、彼女は近づいてくる。リシェリスの手から剣が滑り落ちる。赤髪の恋人の手が、その頬に触れる。


「頑張ったんだね」

「私は、私は……」


 リシェリスは崩れ落ち、頭を抱かれる。


「休んでも、いいんだよ」





 トウカは、東洋の血を引く祈祷騎士であった。従騎士としてリシェリスと共に育ち、十八になり叙任されてからは並んで武者修行の旅に出た。それが、十年前のことだ。


「なあ、トウカ」


 隣の親友に、リシェリスが語り掛ける。帆船は春風に乗ってジヅルへの航路を走っていた。


「何が見たい?」

「観光じゃないんだよ? 強くなるための旅なんだから」

「いいじゃないか、これまでずっと教会領にいたんだから、多少遊んだって怒られはしない」

「もう……」


 自分より小さな相棒に、リシェリスは笑顔を見せた。背中には盾、左腰には剣。それはトウカも変わらない。


「でも、そうね。ジヅルには植物園があるって。ちょっと見に行きましょう?」

「植物園~? 何が面白いのかねえ」

「薬草の知識って大事なんだよ! 単なる傷なら治癒魔法で治せるけど、病気って治すの難しいんだから!」


 大して大きくない体で主張する彼女の頭を、リシェリスは撫でた。


「頼りにしているよ、トウカ」

「そう言えばいいと思ってるの? 私そんな簡単な女じゃないよ」


 ゲラゲラと、リシェリスは大声を出して笑った。


「簡単だよ、ちょっと旨い飯を与えれば黙るからな」

「もう助けてあげないんだから」

「それとこれとは話が別だろうが」


 すっかり臍を曲げた彼女の機嫌を、背の高い新人騎士はどうにか取ろうとして、あれやこれやと話をする。


「わかったよ、植物園の入園料は私が出す。それでいいか」

「ご飯代もだよ」

「チッ……」


 舌打ちして、デッキの手すりにリシェリスは凭れた。空はどこまでも晴れ渡っている。波が船を叩く。渡り鳥が飛んでいく。彼女らの旅は、まだ始まったばかりだ。


 二週間の滞在を終えてジヅルから東に抜け、カマ王国へ。まだ国境が開かれている頃のことだ。その少し内側にある農村を訪れた、夜。地主の屋根裏部屋で、机上の青燐盤が反応した。


「頼みごとがある」


 サグアが蒼い円盤の上に現れる。


「ここから東に進んだ村で、魔域の誕生が観測された。その対処を、君たちに任せたい」

「二人で、ですか」


 トウカが尋ねた。


「そうだ。大したものではない。観測結果から推測するに、訓練の一環程度に思ってくれていい」

「任せてください。やってみせます」


 リシェリスが胸をドンと叩いて言った。


「ああ、任せたぞ」


 スッ、とまだ首席ではなかったサグアが消えた。


「魔域平定か、教会騎士って感じだな」

「リシェリス、困ってる人がいるんだよ? 楽しそうにするのはダメ」

「優等生さんは大変だねえ」


 手をひらひらと振って、彼女は布団に入った。ベッドは二つ。壁の両端にピタリとついて置かれている。机はその間だ。


 少しの不満を抱えながらトウカも寝る。


(魔域、かあ)


 悪意と怨念の塊。いつだって、魔は人の生活を脅かしてきた。


(封印から漏れ出た魔王の魔力が、その大本)


 窓から差し込む月光。


(いつか、魔王を完全に焼き尽くさないといけないよね)


 勇者たちの蒼い炎は、確かに魔王を弱めた。だが、殺すまでは至らない。そこまで考えて、意識が溶けた。


 朝。二人は東へ進んだ。パンやバターを貰って、少し荷物は重くなる。一日かけて、件の村に到着した。


「歓迎は……してもらえる空気じゃないな」


 崩れた民家の下から、血が流れ出ている。胸を斬り裂かれ、壁に凭れて死んでいる。頭を齧られ、息絶えている。そんな光景が広がっていた。


「魔物の気配はないけれど……邪気は感じるよ」


 トウカは気を張りながら進んでいく。血と未消化物と排泄物の臭いが入り混じって、二人の嗅覚を嫌な方に刺激する。


「誰か、生きておりませんかー!」


 彼女の呼びかけに応じるものはない。何かが動いた様子もない。ただ、曇天の下に風が吹いていた。


「入り口を探すぞ。邪気を放っているはずだ」


 この時のリシェリスは、まだ両手剣ではなかった。一般的な片手剣に盾だ。それを、彼女はここで捨てることになる。


 村を北に進んだところに、小さな丘がある。人々が祈りを捧げるための簡易的な礼拝堂が置かれていたが、今は、黒いヘドロのようなものに覆われていた。


「ここだな……魔剣を核にしているタイプかもしれない」

「うん。地下に魔剣を封印していたんだと思う。それが緩んで……」

「魔域になった。有り得るシナリオだな。階層はどれくらいありそうだ?」

「深くはないと思う。あって三……でも、大きい魔力がある。応援を呼びに行く?」


 リシェリスは鼻で笑って答える。


「怖いから助けてください、なんて言えるかよ。行くぞ」


 二人は鎧を纏って地下への道に踏み込む。一歩歩けば足に纏わりつく、粘々とした泥めいた物体。魔域というのはこうなのか、と二人は世界の広さを感じた。


 下り坂を終え、広間に出る。まず目についたのは亡者。だが、それだけではなく、鳥であったり犬であったりの形をした低級の魔物もそれなりの数がいた。


 トウカがすぐさま祈りを捧げ始めたことで、不浄なる存在は動きを緩慢なものにする。そこへ、リシェリスは斬り込んだ。黄色い稲妻を纏った斬撃は、魔物を断ち、穢れを祓う。空を飛ぶ魔物に対しては、雷の槍を投擲して撃ち落とした。


 十五分ほどで、そのフロアに救っていた魔は一掃された。


「なんだ、楽な仕事じゃないか」

「ダメだよ、気を抜いちゃ」


 兜の中で笑い、リシェリスは下層への道を探す。凹凸のある壁からはねっとりとした光が放たれて、薄ら明るい程度の照明をこの場所に齎していた。


 それを剣のポンメルで叩いていくと、音の反響の仕方が違う場所を見つける。


「ここだ」


 雷を纏わせた刃で、一撃。壁が崩れて下り坂が現れた。そこもまた、ぼんやりと照らされている。


 下へ、下へ。あまりにも長い。構造としては螺旋階段のようなものだった。ぐるぐると回っていきながら下ること二十分。漸く下層に到達した。


 そこは祭壇の置かれた場所だった。石でできた、少し低い台。その奥に、赤い刃の両手剣が安置されていた。


「あれだ! あの剣が、ここの核になってるんだよ!」

「封印、できるか」


 そう促され、トウカは友人と共に剣へと近づいた。だが。


「トウカ!」


 リシェリスはそう叫んで防御魔法を展開した。そう、黒い鎧に身を包んだ剣士が、背後から近づいていたのだ。大ぶりな斬撃を受け止め、彼女は剣士を蹴り飛ばす。


「トウカは封印を優先してくれ。私がこいつを止める」


 剣士の背丈はさほど高くない。体格差で押されることはないだろう、と彼女は判断した。剣に雷を宿し、振るう。鎧を割り、奥にある赤い血を散らせた。


「何者だ!」


 傷口を癒していく相手に向けて、彼女は大声で尋ねる。


「ヴァルト。嘗てはそう呼ばれていた」


 内臓を揺さぶるような、深みのある声でその剣士は名乗った。


「強き者には、敬意を」


 ヴァルトは得物に黒い稲妻を纏わせる。


「ノルフィアの生き残り、だと⁉」


 驚愕したのも束の間、雷光は剣先から迸り、リシェリスを襲う。何度も、何発も、防御魔法に打ち付けられる異端の光は徐々に魔力の壁を侵していく。


驟雷しゅうらい


 何十発もの雷の矢がヴァルトの周囲に浮かび、一斉に走り出す。俄雨が屋根を叩くような音の後、ついに、壁が割れた。


 それだけなら、まだ良かった。攻めに転じるだけで済むのだから。だが、防ぎきれなかった黒い雷霆は、トウカの心臓を貫いた。


「トウ──」


 振り向いたタイミングで、剣士も動く。斬撃を盾で受け止めると、それさえも浸食される。炭に斧を下すようなものだった。すぐさま彼女は盾を捨て、続く攻撃を回避する。


(早くトウカに治癒魔法を──いや、黒い稲妻は治せない──なら、なら──トウカは──)


 頭を駆け巡る言葉たち。彼女は剣を構えることしかできなかった。


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