目を覚ますと、消毒液の匂いが広がっていた。
眼前には見慣れない天井が広がっていて。
寝ている場所は家のベッドよりも硬い。
ここは一体――
「目が覚めたか?」
聞こえたのは司の声だった。
ということはまだ学校にいるのか?
そもそも俺はなんで眠って……思い出した。
「落ち方に失敗して気絶したんだな」
「保険の先生が言うには軽い脳震盪だと。それで試験の結果だが――」
「どうせ元から永玲に行く気はないんだ。聞く必要はないだろ」
司の言い掛けた言葉を強引に飲み込ませた。
今のは半分だけ本音だ。でも残りの半分は違う。
「それでゴリラたちは?」
「授業を抜け出して来てたらしいからな。試合が終わってすぐに帰った」
「……そうか」
「俺もこれから授業だ」
「悪いな。お前の勉強の邪魔をして」
「相棒だからな。これぐらいのアシストはするさ。それと別のアシストもな」
司がそう言った直後。廊下からドタドタと激しい足音が聞こえた。
足音の人物は保健室の扉の前へ立つと、軽い深呼吸をして息を整える。
その様子を見ながら、司が一言呟く。
「どうせ俺には話してくれないだろうからな。別のカウンセラーを用意した」
「何を言って……」
『失礼します。倒れた夏陽ハルの保護者として来ました』
廊下から聞こえた声。
その声に俺は目を丸くした。
***
「何があったのよ」
「別に何もねぇよ」
保健室のベッドに寝転がったまま、部屋には俺とフユの二人だけ。
司はすぐに授業へ赴き、先生は職員室に行っているらしい。
司曰く、当分は俺とフユの二人きりとのこと。
「つうか司からは何も聞いてないのか?」
「神宮寺君? 私はマナから連絡をもらったんだけど?」
白いワンピースを着たフユのキョトンとした顔。
余計なことを口走ったかもしれない。
「何? もしかして神宮寺君と喧嘩でもしたの?」
「してねぇよ。それに喧嘩は喧嘩でもバスケの喧嘩だ」
「ふ~ん。それで負けて不貞腐れてるんだ」
「……なんで俺が負けたと思うんだよ?」
俺はベッドの近くに置かれた椅子。
そこに座るフユから顔を背けた。
するとフユが笑って答える。
「だってアンタ、あの時と同じ顔してるじゃない」
「あの時?」
「中1の全中で負けた時。あの夜と全く同じ顔じゃない」
そう言われて思い出すのは夜の体育館だった。
全中から期間後、俺は家にも帰らずに学校の体育館に入り浸っていた。
それも手も足も出なかった悔しさを紛らわすため、ただひたすら練習に打ち込むため。
「実はね私、偶然アンタが夜の体育館で練習してる姿を見掛けたのよ」
あれは深夜の時間帯だ。偶然見かけることなんてまずありえない。
それなのにフユは俺を見掛けた。
もしかして探してくれていた?
「それであの時、初めてアンタのことを格好いいと思ったのよね」
フユの言葉に息が止まりそうになった。
だっていつものフユなら決して、そんなこと言わないから。
俺が驚いている間もフユの言葉は続く。
「私なら全国に行けた時点で終ってたはずだもの。全国で負けても仕方ない。そういう気持ちでいたはずだもの。だけどアンタは違った。そういうところ、素直にすごいと思っちゃったのよね。だからあの夜はずっとアンタのことを眺めてたの。だからわかっちゃうんだ。アンタが今、負けてすごく悔しいってことが」
たぶん、それがわかるのはフユだからだ。
ずっと一緒にフユだからこそわかる違い。
それにまさかあの場面を見られていたなんて。
俺としては格好悪くて思い出したくもないのに。
それでもフユはその姿を『格好いい』と口にしてくれた。
「俺はお前が思ってるほど、格好良くないぞ」
「知ってる。バスケ以外はダメダメな私の幼馴染だもん」
「でもそのバスケでも今日、完敗したんだ。何もできなかった」
「ならまた上手くなるしかないよね。上手くなって今度はちゃんと勝とう」
「それから……それから……」
「いくらでも聞くわよ。今日の私はハルの保護者なんだから」
思わず泣き出しそうだった。
負けた悔しさが原因じゃない。
確かに追い越したと思っていた相手。
その相手に手も足も出なくて負けたのは素直に悔しい。
でも初めてだったから。
負けた試合がトラウマじゃなくて、希望の象徴になるなんてこと。
それに2年もの時間を掛けて、ようやくあの日の自分が救われた気がした。
ただ黙々とゴールにシュートを打ち続けたり、コート上をドリブルでガムシャラに走り続けたあの夜の自分。ただ誰かが見ていてくれたというだけなのに。たったそれだけのことで救われた気がした。