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第3話  見えない旋律

チェロを抱えると、世界が少しだけ静かになる。

 それは音を奏でるための構えだけれど、佐伯陸さえきりくにとっては、まるで盾のようだった。


 教室の隅。アンサンブル授業の初日。

 心音、奏多、澄香、そして陸──四人が揃った音楽室には、どこか張り詰めた空気が漂っていた。


 「とりあえず一回、合わせてみる?」


 最初に声を出したのは澄香だった。

 澄香の笑顔は相変わらず明るくて、でもどこか無理をしているように見えた。


 心音は少し戸惑いながらもうなずく。奏多は、無言のままピアノの前に座った。


 そして、音が──始まった。




 不器用だけど、でも確かに。

 4つの音が一斉に重なったとき、陸は思った。


 「バラバラだな……」


 誰もが少しずつ、どこかを気にしている音だった。

 心音のヴァイオリンは揺れていて、澄香のフルートは明るすぎて、奏多のピアノは冷たい。


 陸のチェロだけが、何かを埋めるように低く鳴っていた。


 心音の音──

 あのとき、あの夕暮れの講堂で、ひとりで弾いていた心音の旋律。

 まだ中学生だった自分は、その音にすがるように立ち止まった。


 あのときから、心音の音だけは、心のどこかにずっと残っている。




 初回の練習は、うまくいったとは言えなかった。

 演奏が終わった瞬間、誰も口を開かなかった。


 「うーん……、ちょっとテンポがバラけてたね」

 澄香がそう言って、場を和ませようとする。

 心音は

「ごめんなさい」

と、首をすくめた。


 ──謝るのは、君のせいじゃない。


 陸は言葉にできなかった。

 けれど、心音の手元をじっと見つめていた。


 小さく震える指先。

 それでも弓を離さずに持ち続けるその姿が、たまらなく綺麗だった。


 奏多が一言、ぼそりとつぶやいた。


 「君たちのテンポが安定すれば、合わせやすくなると思う」


 澄香の表情がわずかに曇る。心音も黙ってうつむいた。


 陸は、奏多の言葉が正しいと思った。でも同時に、言い方が冷たすぎるとも思った。




 帰り際。

 心音が音楽室に忘れ物をして戻るのを見かけた。


 「……一緒に戻ろうか?」

 声に出したのは、それが初めてだったかもしれない。


 心音は少し驚いた顔をして、でもふわりと笑って言った。


 「うん、ありがとう」


 その笑顔が、胸の奥で小さな音を立てて響いた。


 不協和音でもいい。

 たとえ誰の気持ちも、届かなくても。


 せめて、陸は自分のチェロだけは──

 心音の旋律を、やさしく支える音でありたい、そう願っていた。


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