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第5話  明るさの裏側

どうして、私は笑っているんだろう。


 音楽室の片隅で、石井澄香はこっそり深呼吸した。

 練習が終わり、教室を出ようとしていた心音と陸の背中が並んで見えた瞬間――

 胸の奥に、小さな痛みが走った。


 (別に、何も……おかしくない)


 自分にそう言い聞かせながら、いつものように口角を上げる。

 高校の音楽科。人付き合いも演奏も、うまくやってきたつもりだった。

 クラスの誰とでも話せるし、笑顔だって自然に作れる。


 だけど。

 あのとき、講堂でひとり演奏していた心音の音を聴いてから、何かが変わり始めていた。




 最初は、ただ「すごい子がいるな」と思っただけだった。

 小さな体で、心をまるごとさらけ出すような演奏。あんな風に音を出せる人、そういない。


 でも、それだけじゃなかった。

 初めて声をかけた日――心音が恥ずかしそうに笑ったその笑顔が、やけに印象に残っていた。


 そして、気づいたときには、目で追っていた。

 音楽室で、廊下で、講堂の隅で。

 その人が笑っていると、理由もなく安心できて、でも同時に、胸が苦しくなった。


 (私……何やってるんだろ)


 澄香は、ふと窓の外を見た。

 夕暮れの校舎がオレンジに染まり、校庭に長い影を落としている。

 こんな風景も、去年までは一人で眺めていた。


 でも今は違う。

 カルテットじゃなくて、アンサンブル。4人の音が交わる場所に、自分はいる。


 だけど──


 (あの子は、佐伯くんのほうを見てた)


 気づいてしまった。

 心音が演奏中に、何度も陸の方へ視線を送っていたこと。

 あの演奏が、少しずつ溶け合い始めたこと。


 (そんなの、ズルいよ)


 誰にも言えないこの想いを、どうやって抱えればいいのか分からなかった。




 その日の帰り道。

 下校時間の音楽棟は静かで、足音だけがやけに響いた。


 そこへ、パタンと扉の閉まる音。

 振り向くと、心音がちょうど校舎の角を曲がったところだった。


 「ここね!」


 思わず呼び止めた。

 自分の声が少し大きすぎたことに気づき、澄香は慌てて微笑んだ。


 「……ちょっと、一緒に帰らない?」


 心音は一瞬驚いた顔をして、でもすぐに頷いた。


 「うん、いいよ」


 並んで歩く帰り道。ふたりとも、どこかぎこちなかった。

 それでも──心音が少し照れたように笑ったとき、胸の奥で、何かがはじけそうになった。


 (言わなきゃ、きっと私はまた笑顔のまま、置いていかれる)


 だから澄香は、ほんの少しだけ声を震わせながら言った。


 「心音って……さ、佐伯くんのこと、気になってるの?」


 心音が足を止める。


 「……え?」


 「ごめん、変なこと聞いたね。でも……なんか、最近、ずっと気になってて」


 心音はしばらく黙っていた。そして、小さく首を横に振った。


 「わからないの。自分でも。

  ただ……私の音に、寄り添おうとしてくれたって、今日言ってくれて……それが、うれしくて」


 その言葉が、まるで矢のように澄香の胸を射抜いた。


 (私も、君の音に寄り添いたかったのに)


 でも、そんな想いは飲み込んだ。

 代わりに、いつものように笑ってみせた。


 「そっか、なら……よかった」


 夕暮れの道に、ふたりの影が静かに並ぶ。

 触れそうで触れない距離。

 音と心がすれ違う、その始まりだった。


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